ノーモア・スローライフ ~転生先は狩られる生き物だった~

天草ミスキは15才の男子高校生。

彼は女神様の手違いで死亡し、異世界に転生することになった。

死因は交通事故。 学校に遅刻しかけて道路に飛び出したところを車にひかれたのだ。

なんの変哲もない交通事故だった。 女神様の手違いが事故にどう関わったのかをミスキは知りたがったが、女神様は口をつぐんで教えてくれなかった。

女神様は手違いのお詫びに、ミスキの転生先として遅刻しにくい肉体を選んでくれた。 彼は『ニンブリング』という妖精として異世界に転生することになったのだ。

ニンブリングは行動速度が普通の人間の3倍だ。 歩く速さも食事スピードも3倍。 逆に言えば、あらゆる所要時間が1/3である。 トイレにこもる時間も、筆記試験の問題を解く時間も、すべて常人の1/3で済む。

ただし、ニンブリングは乱獲により絶滅が危惧される種族でもある。 乱獲の理由はニンブリングの肉だ。 ニンブリングの肉には食べた者を素早くする効果がある。

「お肉を狙われるって、生きるのが大変じゃないですかね?」

しきりに不安がるミスキだったが、女神様はミスキの身の安全に太鼓判を押す。

「普通の妖精のフリをしてれば大丈夫。 それに、素早いから容易には捕まらないわ」

じゃあなんで絶滅が危惧されるほどに狩られたんですか? 女神様の太鼓判に安心できないミスキは他の種族を希望したが、女神様は考えを譲らない。

「異議は認められないの。 もう二度とあなたに遅刻で死んで欲しくないから。 これは私からの厚意だと思ってちょうだい」

仕方がない。 ミスキは少なからぬ不安を覚えつつ、女神様の転生術に身を委ねる。

「じゃあ、転生プロセスを開始するわね」

女神様の声がして、ミスキの全身がまばゆい光に包まれる。

「転生地点の設定は... っとこれでOK」

光はいよいよ強まる。 ミスキはまぶしさに目を閉じた。

「転生先の種族はニンブリ... あっ」

女神様の「あっ」がミスキの脳裏に直ちに警報を鳴らす。

「『あっ』ってなんですか?」

「だいじょうぶ。 さあ、ちょっとした手違いもあったけれど、いよいよ転生よ。 あなたの第二の人生に幸のあらんことを!」

浮遊感があり、閉じたマブタ越しにも光が遠ざかって行くのがわかる。

「女神様、『ちょっとした手違い』ってなんなんですか?」

「あなたの第二の人生に幸のあらんことをっ!」

「ねえ、具体的に教え...」

その瞬間、ミスキは別世界に転生した。

◇◆◇◆◇◆◇◆

ミスキの転移先は空中だった。

転移後さっそく大地に向かって落下し始めるミスキ。

しかしラッキーなことに落下先は木の上だ。 ミスキの体はガサガサべきガサべきと木の葉や小枝の茂りを通過して落ちてゆき、わりと大きな枝に受け止められた。

「ぐぇ」

お腹を枝に打ち付けて思わず声が漏れる。

擦り傷や打撲傷はあちこちにあるけれど、幸いにも大きな怪我はしていないようだ。

まったく女神様はとんでもない場所を転移先に指定してくれたものである。 あるいは転移先が空中だったのも女神様の手違いの1つかもしれない。 おそらくだが、あの女神様は相当にそそっかしい。

とすれば、ミスキはやはり幸運だったのだろう。 運が悪ければ、遥かな高空や地中あるいは深海の底が転移先だったかもしれないのだから。

しばし考え込むミスキの耳に、ブーンという音が聞こえてくる。 ハチの羽音である。

見れば、体長3cmほどもあるハチが何匹かミスキのほうへ飛んできている。 スズメバチだ! ミスキが落ちた木にスズメバチが巣を作っていたのだろう。

スズメバチは非常に攻撃的なハチで強力な神経毒を持つ。 たくさん刺されると死んでしまうことも珍しくない。

しかし、ミスキはさほど慌てなかった。 彼の目にはスズメバチの飛行速度がとても緩やかに見えたからだ。 スズメバチは空中に浮かんでいるのが不思議なほどゆっくりとしたスピードでミスキに接近する。 ニンブリングの能力に違いない。

とはいえ、のんびりしている暇はない。 スズメバチはそれなりの速さでミスキに接近中である。 ミスキは速(すみ)やかに木を降りた。 木登りの逆の要領で木の幹を下がっていき、地面が近づいたらジャンプして着地。

そうしてミスキが着地した隣に、女の子が驚いた顔で立っていた。 木陰で読書をしていたらしく、片手に本を持っている。

「あんた誰!? どこからうちの庭に入って来たの?」

「そんなことよりも、スズメバチだ。 早く逃げろ!」

ミスキがそう言う間にも、木の上のほうからブーンというスズメバチの羽音。

「来たぞっ」「きゃあっ」

スズメバチの脅威から逃れようとミスキは駆け出したが、女の子はその場から動かない。 恐怖のあまり足がすくんだのだ。

このままでは女の子がスズメバチに刺されてしまう。 ミスキは仕方なくスズメバチの木のほうへ戻ることにした。 戻ってどうしようというのか? スズメバチを倒すのだ!

ミスキは10mほどの距離を一瞬で駆け戻り女の子のもとへと辿り着くと、彼女の頭に止まり黒光りする凶悪なモノを今まさに頭皮にブチ刺さんとしているスズメバチを指でつまんで地面に叩き付けた。 さらにもう一匹、女の子の肩に止まり毒針で首筋を狙うヤツもつまみ上げて、地面にビシッと叩き付ける。

ニンブリングに転生したミスキは足が速いだけではない。 繊細な作業も素早く正確に行えるのだ。 宮本武蔵のようにゴハンの上に止まったハエを箸でつまむのも、今のミスキなら朝飯前である。

目の前の地面の上には、ミスキに叩き付けられた2匹のスズメバチがもがいている。 硬い外皮に覆われたスズメバチは地面に叩き付けたぐらいでは死なない。 しばらくすれば再び飛翔して襲い掛かって来るだろう。 ミスキは、地面の上で起き上がろうとしている2匹のスズメバチを容赦なく踏んづけて殺した。

木の上からはさらにスズメバチが2人に襲い掛かって来る。 その数は多数。 あの数のスズメバチすべてから女の子を守り抜くことは出来ない。 ミスキは女の子の尻を叩いて叱咤した。

「さあ逃げて!」

女の子はそれでなんとか動けるようになり、ヨロヨロと走り出した。

女の子のあの走りっぷりでは、すぐにスズメバチに追いつかれてしまう。 ミスキは女の子に背を向け、スズメバチの群れと対峙する。

ブーン、ブーン、ブーン。 無数のスズメバチが一斉に襲い掛かって来る。 しかしミスキの目には、スズメバチの飛来はほとんどスローモーションである。 手づかみで取れそうなほどにゆっくりと飛んでいるのだ。

ミスキはまず、真正面から飛びかかって来た個体の鼻面に右ストレートを放った。 拳が痛むほどに確かな手ごたえがあり、その個体は盛大に吹っ飛んだ。 カウンター・パンチが炸裂したのである。 指でつまんで地面に叩き付けるよりもハチが受けるダメージははるかに大きい。 今の個体はもう立ちあがれまい。

よし次だ。 次のハチはミスキの右上方から襲い掛かって来た。 ミスキは右にサイド・ステップすると、右手で大きめのスイングパンチをスズメバチの横っ腹に叩き込んだ。 スズメバチは毒針を使う間もなく吹き飛ばされ、地面に激突!

ミスキは絶え間なくステップを踏んで微妙に立ち位置を変え、スズメバチが体に取り付かないように気を付けながら次々とスズメバチを屠っていった。

ふんっ! ふんっ! それっ! 今度は左アッパーだ。 どうだまいったか、人間様を舐めるんじゃねえぞ、スズメバチ!

しかし、20~30匹ほど倒しても、スズメバチは後から後から湧いてくる。 くそっ、何匹いやがるんだ。 きりがない。 見れば女の子は既にどこかに去ってしまっている。 無事に逃げおおせたのだろう。 ミスキもハチの群れから逃げ出すことにした。

ミスキの全力疾走はスズメバチの飛行速度など比べ物にならないほど速い。 スズメバチとミスキの間の距離はみるみる開いた。 が、高速で移動するミスキの目前に壁が迫る。 民家と民家を区切る塀である。 ミスキは走る勢いに乗ってジャンプし、壁の上部に取り付いた。 そして壁を乗り越えて隣の家の庭へ。

その家の庭も突っ切り再び塀を乗り越え、さらにその隣の家の庭へ。 ここまで来れば大丈夫か? 背後を振り向き耳を澄ませるがスズメバチの気配は感じられない。 どうやら無事に逃げおおせたようだ。

◇◆◇

この異世界に転生してきて初めて、ほっと一息つくミスキ。 しょっぱなから気の休まる暇もなかった。 ここで少し休んでいこう。

あぐらをかいて地面に座り込むと、ミスキが身に着けているショートパンツから白い足がのぞく。 転生前よりも色白で、脛毛(すねげ)も生えていない。 そうだ、オレはニンブリングに転生したんだ。 ミスキはあらためて自分の全身を確認した。

衣服は転生前のものと違っていて、上半身は緑色のチュニック、下半身は裾が膝の少し下に来るぐらいのショートパンツを身に着けている。 足に履いているのは革製のサンダルだ。

自分の顔はどうなっているのだろう? 鏡... なんてあるわけないか、と庭を見渡すと都合の良いことに池があった。

池の水面に映った自分の姿は、小さくて可愛らしい生き物だった。 整った目鼻立ちで、頭髪の色はどうやらプラチナ・ブロンド。 人間と明らかに違うのは、小ぶりな耳の尖端が軽く尖っていることぐらいだろうか。 切れ長で釣り上がり気味の目元も妖精っぽい雰囲気だ。

悪くないな、小さいけど。 ミスキは水面に映る自分の姿に納得すると、これからどうしたものかと思案を始めた。

◇◆◇

ミスキが思案し始めて間もなく、家の中から庭に人が出て来た。 中年の男性である。「さっきの物音はなんだ?」などとつぶやいている。

人の気配に気づきハッと顔を上げるミスキ。 まずい、ここから逃げなくては。

男性のほうも池のほとりに佇むミスキに気付いた。

「おまえは誰だ? どこから入ってきた」

そしてミスキのほうに向けた鼻をヒクヒクと動かして、さらに言う。

「美味そうな奴め。そこを動くな!」

そう言ってミスキのほうに手を伸ばして歩み寄って来る。

ミスキは庭から逃げ出した。 モタモタと歩く中年男性を尻目に庭の端にたどりつくと、ミスキは塀を乗り越えて庭の外へと身を躍らせる。

逃げながらミスキは男性のセリフに感じた違和感の理由を探り、そして気が付いた。「美味そうな奴」だって? 普通は「怪しい奴」とかじゃないのか?

◇◆◇◆◇

庭の塀を乗り越え、人気(ひとけ)のない街路に降り立ったミスキ。

さっきの男性の「美味そうな奴」という言葉が気になるが、それよりも早急に解決すべき問題がある。 衣食住の問題だ。

さっきの男性の言葉は理解できたから、ミスキはこの異世界の言葉を話せるのだろう。 ミスキは仕事を探すことにした。

◇◆◇

仕事探しなら住宅街よりも繁華街が良いだろう。 ミスキは3倍速で街を歩き回り、ほどなくして繁華街を見つけた。

さすがに繁華街には人が多い。 が、ニンブリングたるミスキにとって雑踏など赤子の手をひねるようなものである。 軽快なフットワークで人混みをすり抜け、彼は職業紹介所を見つけた。

見た目が子供で学歴も高校中退のミスキだが、3倍の行動速度を活かせる仕事がきっとあるはずだ。 例えば、例えば... 宅配便とか。 あるいは... あるいは、そう、何かの犯人を追いかける仕事とか?

ミスキは意を決すると、職業紹介所に足を踏み入れた。 目立つのを避けるため、ことさらに人並みの速度で紹介所の中を歩いていく。

すると、ミスキが通った後に軽いざわめきが起こる。 ざわざわ、ひそひそ... 「あれっ、いい匂い」「美味しそうな」「これは... なんとも食欲をそそる」

ミスキは紹介所の窓口に到達すると丸椅子に腰掛け、女性の職員に要件を切り出した。

「仕事を紹介して欲しいんですけど」

「キミ、何才なの? ご両親は?」

そう尋ねつつ女性職員は鼻をひくつかせる。 何かの匂いを追い求めているかのようである。

「15才です」

ミスキは返答するが、女性は返答には無関心でしきりに周囲の匂いを嗅いでいる。

「キミのほうから、とても良い香りがするわ」

良い香りだって? そんなの言われたことないぞ?

「豊潤で濃厚な味わいを予感させる、そんな馥郁とした香りなんだけど。 華やかですらある香気...」

そう言いつつ女性職員は顔をぐぐっとミスキのほうに近づけて来た。 そしてスンスンと匂いを嗅ぐ。

「やっぱり、あなたからね。 黄金色に輝く芳醇なスープをキミの皮が包み込んでいる。 そんなイメージが沸き上がって仕方ないの」

女性の口の端から軽く垂れるヨダレを手の甲で拭うとミスキに尋ねる。

「いいかしら?」

「はい?」

「あなたを食べてもいいかしらっ!」

そう叫びつつ女性職員はカウンター越しにミスキに掴みかかろうとする。

だがミスキは常人の3倍の速度を誇るニンブリング。 機敏な動作で丸椅子から立ち上がると、軽快に後ろにバックステップ... しようとしたら背中が誰かにドスンとぶつかった。

振り向くと、ミスキを取り囲むようにして何人もの人影。 どいつもこいつも、カニ料理でも見るような目つきでミスキを見つめている。 口の端から長ーいヨダレを膝のあたりまでツーっと垂らしている者も。

「やっぱり食べれるんだよ、この子」「近くに来たときに捕まえとけばよかった」「常識に邪魔されたわね」「人型は食べれないって決めつけてた」「こんな美味そうな匂いを放つのが食べ物でないのは自然の摂理に反する」「食べるのが自然なんだ」「食べていいんだ」「食べて当然」「食べて応援」

世界が狂ってしまったかのような光景だが、ミスキは頭のどこかで冷静にこの現実を受け止めていた。「ニンブリングの肉体のせいだ!」

ミスキはその気になれば思考速度も常人の3倍である。 自分が危機的な状況にあることを瞬時に理解すると全速モードに入り、最高速でもって周囲の人垣を逃れ、あっという間に職業紹介所から逃げ出した。 それはまさに電光石火の素早さであった。

◇◆◇◆◇

ミスキは当て所(あてど)もなく街を歩く。

ニンブリングは確かに狩られる存在であり絶滅危惧種だ。 しかし、人々がニンブリングを狩るのは素早さをもたらすお肉が目当てであって、美味しそうだからではないはずだ。 女神様はニンブリングの説明でもどこか間違っていたのだろうか?

それはさておき、喫緊の問題は衣食住である。 人を狂わせるほどに美味しそうな匂いを放っている以上、ミスキは就職できない。 おカネを稼いで衣食住を整えることも出来ない。

そうして常人の3倍の速度で考えを進め、ミスキはすぐに結論にたどり着いた。 物を盗んで暮らすしかない、と。

仕事に就くことはおろか店で買い物することもできないのだから、ミスキに残された途(みち)は店頭から商品を盗んで生きることだけである。 ミスキは前世でも盗みなどしたことがなかったが、ニンブリングの素早さをもってすれば盗むこと自体は簡単だろう。

あとは覚悟だけの問題だけであるが... どうせいつかは盗みに手を染めねばならないのだ。 やるなら空腹や喉の乾きに追い詰められる前、精神的な余裕が残っている今のうちがいい。 ミスキは覚悟を決めると、繁華街の近くにある商店街へと向かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆

ミスキが食べ物を店先から盗む生活を始めて2週間が過ぎた。

彼のねぐらは空き家の屋根裏部屋。 睡眠中にアリに群がられるのを恐れて、ミスキは高い場所を棲み家として選んだのだ。 屋根裏部屋にもしかし、彼の香りに誘われたネズミはやって来る。 異世界サイズの大きなネズミである。 ミスキはこれまでに3匹のネズミを殺していた。 いずれも死闘であった。

この2週間でミスキは疲れ果てていた。

夜はネズミを警戒して熟睡できないし、食料の調達も相応のリスクを伴う。 万が一店主に捕まりでもすれば、小学生サイズのミスキなど簡単に殴り殺されてしまうだろう。 同じ店から何度も盗んだため、店のガードも厳しくなっている。

身寄りの無い異世界で人生の希望もなく、食品を盗み生命をつなぐだけで精一杯の日々。 病気になったら? 怪我をしたら? もういっそ死んでしまったほうが楽かもしれない。 異世界に転生してきた意味などあったのだろうか?

それでも今日も、ミスキは食料を盗みに町中へ出かける。 生きていたいわけではない。 餓死であれ自殺であれ、死ぬ時の苦痛が怖い。 そんな消極的な理由で彼は今日も町へ出る。

◇◆◇

ミスキ御用達の食料品店は店員が2人増えていた。 どちらも警備員だろう。 ミスキの窃盗行為への対策であることは明らかだ。 これではいかにミスキといえど、商品に手を出せない。

ミスキは何気なさを装って店の前を通り過ぎたが、店員がミスキに向ける視線が厳しい気がする。 窃盗常習犯の背格好ぐらいは警備員に伝わっているのかもしれない。

ミスキは商店街にもう一軒ある食料品店へと向かった。 が、ここも警備員とおぼしき店員が増員されていた。 なんなんだろう? 二軒の食料品店で示し合わせてミスキ対策を行っているのだろうか?

商店街には他にも食料品店や食堂はある。 しかし、いずれも店先に食べ物を陳列していない。 ドアを開けて店内に入らなくては食べ物にアクセスできず、それは美味しそうな匂いを放つミスキにとっては危険な行為であった。

◇◆◇

この異世界にうんざりしたミスキは、半ば自棄(やけ)になって考える。 真北へ歩き続けてみようか? ミスキはこの世界に飛ばされてから一度も町の外を見ていない。 町の北限に達する前に食料を盗めそうな店が見つかればよし。 見つからなければ町の外に出てみるのも一興だ。

そう考えたミスキは3倍速で歩き出す。 しかし1時間ほどで町の北限と思われる地点に達してしまった。 ここに至るまで食料チャンスは見つからずじまい。 おまけに町の北限は巨大な防壁で遮られていて、外に出るのはおろか外の様子を眺めることすらできない。

ことここに至り、ミスキは完全に自棄を起こした。 食べ物にありつくのも町の外に出るのも、なんにも思い通りにならなかったためだ。 空腹のせいもあっただろう。 ミスキは朝から何も食べていなかった。

この世界もこの肉体もオレに向いてない! もうどうにでもなれ!

声には出さず心の中でそう怒鳴ると、人通りの少ない道をミスキは防壁沿いに西へ向かって猛然と歩き出した。 むろん行く当てがあるわけではない。

◇◆◇

自暴自棄になって歩き続けていると、前方に露店が見えた。 しかし、食べ物の店ではない。 花屋だ。 色とりどりの花が陳列されている。

いつものミスキなら、美味しそうな体臭で人を惑わせないよう出来るだけ距離を取って歩くところだが、今のミスキは自棄を起こしている最中である。 露店を迂回することもなく、胸を張って堂々とその前を通った。

そのはずだったのだが、傍から見るとやはりミスキはしょげかえって見えたらしい。 露店の主から心配そうな声が掛かる。

「どうしたの、ぼうや。 しょんぼりしちゃって」

若い女性の声だ。 久しぶりに耳朶(じだ)を打つ優しい声にミスキの足が止まる。

「1人なの? お母さんは?」

ミスキは首を横に振る。

「母さんは... ここにはいない」

そう言いながらミスキは女性のほうへ顔を向けた。 金髪のショートヘアをした快活そうな女性だ。

「そんなに汚れちゃって、可愛い顔が台無しよ。 綺麗にしてあげるから、こっちにいらっしゃい」

女性にそう言われ、ミスキは女性のもとへ歩み寄る。 よしっ、この女性に食べられよう。

「ほらー、こんなに汚れちゃって。 もう何日もお風呂に入ってないんでしょう。 とっても美味しそうな匂いがしてるじゃないの」

女性はそう言ってから、自分の発言がおかしかったことに気付いた。

「あらっ、『美味しそう』だなんて。 私どうしちゃったのかしら?」

「お姉さんはおかしくないよ。 おかしいのはボクのほうなんだ。 ボクを食べたいなら食べてもいいよ」

ミスキはそう言って、むき出しの右腕を女性の目の前に差し出す。

差し出されたミスキの生腕を見て女性はゴクリと生唾を飲み込む。 ミスキの腕を見つめる彼女の目は、蒸し上がったばかりの小籠包(しょうろんぽう)に人々が向ける目と何ら変わらなかった。

が、しかし、お姉さんはそこからの行動が他の人と異なっていた。 彼女はミスキの腕にかぶりつくのを鋼の精神力で我慢したのである。 ギュっと目をつぶり、ミスキの腕から自分の視線を遮ろうと顔を両手で覆う。

「ダメダメダメ! 人を食べるなんて許されないわ。 たとえ... くっ、たとえ、どれほど美味しそうでもっ」

倫理観の勝利を示すセリフを言い放つお姉さん。 しかし、そのセリフが放たれる口の端からはヨダレがツーっと垂れ落ち、風に揺れている。 お姉さんはヨダレを拭おうと右手を顔から離すが、その折に彼女の右目がミスキの生腕をバッチリと捉えてしまう。

「ああっ、食べたい! とてもっ、とても食べたいッ」

「我慢しなくていいよ。 ほらっ、食べちゃいなよ。 どうせボクはこの世界では生きていけないんだ。 食べられるならお姉さんみたいな人がいい」

「っ、そんなことッ、言っちゃいけません!」

叫びつつお姉さんは両手を広げてミスキに襲い掛かった。 ミスキは固く目を閉じ、噛み付かれる痛みを予期して身構える。

ミスキの細い両肩をガッシリと掴むお姉さんの両手。 首筋にガブリと噛み付かれるのか? ミスキはお姉さんが噛み付きやすいように顎を心持ち上にそらせた。 さあ、どうぞ。 美味しく召し上がれ。

しかし、目を固く閉じるミスキが感じたのは、首筋を襲う痛みではなく背中にお姉さんの両腕が回される感触だった。

お姉さんはミスキをぎゅっと抱きしめて耳元で言う。

「食べられてもいいなんて言っちゃだめ。 たとえ、」 ジュルリ。 お姉さんは口元から垂れるヨダレを吸い込み言葉を続ける。 「たとえ、どれほど美味しそうであっても...」

ミスキの耳元に寄せられたお姉さんの息は荒く、密着するお姉さんの胸からは激しい鼓動が伝わって来る。 彼女は今もミスキを食べたいという衝動を必死で抑え込んでいるのだ。

「お姉さん...」

◇◆◇

ミスキから事情を聴き終えたお姉さんは左手で自分の鼻をつまみながら言う。

「そっか。ミスキは転生者だったのね」

彼女が鼻をつまんでいるのはミスキの旨そうな匂いを嗅がないためだ。 当然、彼女の声は鼻声となる。

「その女神様はミスキをエルダー・ニンブリングに転生させたんじゃないかしら?」

「エルダー・ニンブリング?」

「ニンブリングの上位種よ。魔王の呪いにより美味しそうな匂いを放つ体になり、食べ尽くされて絶滅した種族したと言われているの」

「...ニンブリングってどのみち食べられる運命にあるんだね。 それはそうと魔王なんているの?」

「今はどうかしらね。 エルダー・ニンブリングの勇者に殺されたと言い伝えられているけど。 勇者に殺される間際に魔王がエルダー・ニンブリング全体に呪いをかけたそうよ」

「すでに死んでいる魔王がかけた呪いなんて解きようがないよ!」

「呪いは解けなくても、ミスキの体臭を抑えれば問題解決かも。 体臭を抑える薬を買ってきてあげるから、ちょっとここで待ってなさい」

「ありがとう、ナナリさん」

ナナリとはお姉さんの名前である。

通行人を避けつつ花屋の周辺で時間をつぶすこと1時間、ようやくナナリが戻って来た。

「さ、この薬を飲んでみなさい。キノコが主成分の薬よ」

言われたとおりに薬を飲むミスキ。

「何か食べたほうが薬も効きやすいかしら。 朝から何も食べてないんでしょ?」

そう言ってナナリはサンドイッチを差し出してくれる。 何から何までお世話になりっぱなしだ。 ミスキはありがたくサンドイッチを受け取った。 「ありがとう」

露店の店じまいを終えたナナリがミスキに声を掛ける。

「ミスキ―、こっちにいらっしゃい」

ナナリは近寄って来たミスキの匂いをスンスンと嗅ぐ。

「薬が効いてきたみたいね。 まだちょっと食欲をそそられるけれど、もう人に襲われることはないでしょ」

ミスキが前腕を鼻に近づけて自分の臭いを確認していると、ナナリが声を掛ける。

「身寄りがないんでしょう? うちにおいでなさい」

ナナリはアパートで独り暮らしだった。 お風呂を使わせてもらい、寝床も用意してもらい、ミスキは久しぶりに人並みの生活を味わった。

◇◆◇

ナナリのアパートに厄介になり始めて数日後、ミスキは再び職探しに繁華街に赴こうとしていた。 花屋の仕事や家事を手伝ってはいたものの、ナナリに受けた恩を返すには不十分である。 ガツーンと稼いでドーンと恩返しをしたいのだ。

花屋の店仕舞いを終えた夕方、ミスキはナナリに告げる。

「仕事を探しに繁華街に行ってくるよ」

「そう? 変な人に気を付けるのよ。 ミスキは可愛いんだから」

「大丈夫だよ。なんてったってオレはエルダー・ニンブリングだからね」

普通のニンブリングとエルダー・ニンブリングの違いをミスキは知らない。 ナナリが知らなかったからだ。 だが、上位種であるとされる以上、エルダーは普通のニンブリングよりどこかが優れているはずである。

◇◆

夕方の繁華街は昼間よりも人が多く、雰囲気も猥雑だった。 昼間には閉まっていた夜の店が開店し始め、ピンク色や紫色の光が通りを照らす。 この世界に電気はないから魔法の光だろう。

ミスキが職業紹介所を目指して歩いていると横合いから声を掛ける者がいる。 色っぽい女性の声だ。

「あら、可愛らしいボウヤね。 どちらへお出かけ?」

ミスキの肉体は小学生サイズだが、中身は男子高校生である。 キレイなお姉さんに声を掛けられて嬉しくないわけがない。

「そこの職業紹介所まで。 ちょっと仕事を探しにね」

「まあ、なんて好都合なんでしょ。 あたし今ちょうど、仕事を探してる人を探してたのよ」

お姉さんの言い回しにミスキは少し考え込む。 仕事を探してる人を探してる...? 求職者を募集?

「従業員を募集してるってこと? どんな仕事なの?」

「とっても稼げる仕事よ。 こんなところで話すのもナンだから、落ち着いて話ができるところに移動しましょっ」

そう言ってキレイなお姉さんは少しばかり強引にミスキの腕を掴んで歩き出す。 体重が軽いミスキは否応もなく引っ張られていった。

◇◆

ミスキが連れて行かれたのは華々しい照明と看板に彩られた雑居ビルの地下にある一室だった。 部屋の入り口には大柄な男性が1人立っている。 守衛だろうか? それにしては人相が悪い。 ミスキは、男性がキレイなお姉さんと何やらアイコンタクトするのを見て見ぬふりした。

安っぽいソファーにミスキを腰掛けさせて、お姉さんが説明を始める。

「ボウヤの仕事は、お酒を飲みに来た女性の接客よ。 お酌をしたり会話の相手になったり。 そんな感じのお仕事。楽チンよ」

そう言ってお姉さんはミスキに書類とペンを差し出して言う。

「さて、仕事の内容が分かったところで、この書類にサインして拇印を押してちょうだい」

差し出された書類は見知らぬ文字で埋め尽くされていた。 何が書いてあるのかミスキにはさっぱり理解できない。 彼はこの世界の言葉を話せたが、読み書きはできないのだった。

「この書類には、何が書かれてるんですか?」

「就労条件とかよ。 みんな読み飛ばすから読まなくても大丈夫。 さあ、さっさとサインして。 ボウヤは今晩から店に出ることになってるの」

サインを急(せ)かすお姉さん。 だが、ミスキにはサインする前に確認すべき大事なことがあった。

「給料はどれぐらい貰えるんです?」

「成果に応じて変わるから一概には言えないわ。 ただ1つ確かなのは、この書類にサインしなければボウヤは一銭も稼げないということ。 小学生が職業安定所に行って仕事を貰えると思う?」

ミスキは職業安定所に行けば自動的に仕事を与えられると思い込んでいた。 お姉さんの言葉は寝耳に水である。

「マジですか?」

「マジよ。 ボウヤは字も読めないんでしょう? 体が小さいから肉体労働も無理だし、そんなあなたに何が出来るっていうの?」

「宅配とか... ウェイターとか?」

「ムリムリ。 どちらも少しは字が読めないとできない仕事よ。 ボウヤの仕事はここにしかないの。 さっ、この書類にサインして就職しましょ?」

言われるがままに書類にサインし、拇印を押すミスキ。

ミスキが契約書に拇印を押したのを見届けると、お姉さんは目に見えてリラックスし、軽やかな声で歌うようにミスキに告げる。

「は~い、じゃあこれで契約完了ね。 ボウヤは可愛いからシコタマ稼げるわよ」

◇◆◇

契約を済ませたミスキは、一階にある店内の控室のような部屋へ連れて行かれた。

部屋には13~16才ぐらいの少年が10名以上も詰め込まれている。 ミスキと同じように華奢で、顔だちもそれなりに整った少年ばかりだ。 肌の露出面積が高い衣服を着用し、飾りのついたオシャレな縄が脹脛(ふくらはぎ)の上の辺りで両足をつないでいる。

「ほら、この服に着替えろ」

そう言って、黒いスーツを着た短髪の男性がミスキに衣服とオシャレ縄を手渡す。 衣服は、陸上競技の選手が着るような布地が少ない服である。 オシャレ縄は、赤・白・金・青などカラフルな糸が織り込まれた縄に、ごちゃごちゃと飾りが付いている。

「この縄は何?」

着替えながらミスキは尋ねた。

「見ての通り、オシャレな縄。 コスチュームの一部だ。きっちり結んどけ」

着替え終わると短髪の男性がミスキのオシャレ縄を確認する。 そして、ミスキの結び方が生ぬるいと言わんばかりにギュっと縄を締め付け、トドメに固結び。 縄をほどきやすいよう、ミスキは蝶々結びにしていたのだが。

「オシャレ縄のせいで歩きにくいよ」

ミスキの両足をつなぐオシャレ縄の長さは差し渡し20cmほど。 これでは本当に小幅でしか歩けない。

「接客中に歩く必要はない。 そんなことより、今から接客中の注意事項を教えるからよく覚えとけ」

そう言って短髪男はミスキに接客の仕方を伝えていった。

いわく、お客様に必ずお酌すること、お客様の煙草に火をつけること、灰皿をこまめに取り換えること、テーブルの上は常に整理整頓しておくこと、お客様がトイレから戻ったらオシボリを手渡すこと、お客様の年齢や職業などを尋ねてはならない、他のホストの悪口を言ってはならない...

短髪男が使った『ホスト』という言葉でミスキは初めて気付いた。 この店はホスト・クラブだったのか。 それも美少年専門店。 そう思って改めて周囲を見渡すと、どの少年もジャニーズ系の顔だちであった。

短髪男はホスト業務の基礎に関するレクチャーを終えると、ミスキほか数名の少年を連れて店の入り口へと向かう。 新入りホストはそこでお客様をお出迎えするのが店のしきたりなのだ。

短髪男の後を付いて、少年たちはチョコチョコと歩く。 オシャレ縄のためにそんな歩き方にならざるを得ない。 だが美少年のそんな姿に、女性客の心はメロメロになってしまうのだという。

店を入ってすぐの廊下に、左右に分かれて3名ずつ美少年たちが整列する。 ミスキもそのうちの1人だ。

そして開店時間がやって来た。

店の前で開店を待ちわびていた女性客たちがゾロゾロと店内に入って来る。 オバさんばっかりかと思っていたミスキだったが、意外にも半分は若い女性。 どの女性もしっかりメイクで、あか抜けた服装に身を包み、高価そうな宝飾品を身に着けている。

「いらっしゃいませ、クラブ・プリンスへようこそ!」

にこやかな笑顔で挨拶するミスキたち6人の容姿を、女性客たちは無遠慮な視線でチェックする。 そんな女性客の1人、太った顔にメイクをたっぷりほどこした40代のオバさんが熱心にミスキの顔を見つめてくる。

若い美人を接客したいミスキは、笑顔を張り付けたまま必死でオバさんから顔をそらせようとするが、オバさんの視線はホーミング機能でも備えているかのようにミスキの顔に張り付いて離れない。

ヤバい、このままでは指名されてしまう。 オバさんが他所(よそ)に行きますようにと全身全霊で念じるミスキ。 しかし、その願いも空しく、オバさんはミスキたちの後ろに立つ短髪男に告げる。

「この子を指名しようかしら」

最悪だ。 こんなオバさんかよ... 時給5千円ぐらいは貰わないとワリに合わない。 客の年齢および体重に時給を連動させるべきだ。 あっ、でも、このお店は歩合制だってさっき言っていたな...

ミスキが常人の3倍の思考速度でくだらないことを考えていると、彼の右肩に誰のものとも知れぬ熱く力強い手が乗せられ、頭上30センチの高さから若く猛々しい女の声が発せられた。

「この子は私が指名するッ!」

声の主はと見上げれば、浅黒い肌をした黒髪の女性である。 身長は女性にしては大きく、腰に長剣を帯びている。 美人ではないものの乳房と太ももが充実していてスタイルは悪くない。 太ったオバさんよりは接客の相手として断然望ましい。

「これはこれはクギナ様、いらっしゃいませ」

短髪男が帯剣女性に声を掛けた。 彼女はこの店の常連客なのだろう。

「この子は私が指名する。文句ないな?」 そう言いつつ、クギナはすでにミスキの身体を半ば持ち上げるようにして左腕で抱いていた。 そして誰の返事を待つこともなく、そのまま店の奥までミスキを運び去っていく。

短髪男が諦め顔でクギナの後を追う。

「クギナ様、剣をお預かりいたします。 店内は帯剣禁止となっておりますので」

◇◆◇

「ほほー、するとオマエは異世界から転生してきたというわけだな」

クギナはミスキをソファー席の隣に座らせてから終始、左腕で彼の肩を抱いていた。 そして、ときおり右手でミスキの太腿を撫でたり、ミスキのプラチナ色の頭髪に鼻を埋めて「あー、いい匂いだ」とつぶやいたり。

「いい匂い」と言われるたびにミスキは身を固くした。 「美味しそうな匂い」という意味でないことは承知していたのだが。 ナナリにもらった体臭抑制薬は、明日の昼間までは効果が持続する。 まだまだ大丈夫だ。

「お姉さんはどんな仕事をしているの?」

ミスキがそう尋ねたのは、クギナがホストクラブに預けた長剣が印象的だったからだ。 この異世界でミスキがファンタジー的な武器を目にしたのはクギナの長剣が始めてだった。

「お前は客に仕事を尋ねるのはNGだと教わらなかったのか?」

しまった、そうだった。

「ごめんなさい」

「謝る姿も可愛いな、ミスキは」

そう言ってクギナはミスキをいっそう強く抱きしめる。

「痛いよ、お姉さん」

「お姉さんじゃない、クギナと呼べ」

「はい、クギナさん」

「くっ、これはたまらん。 もっ、もう一度だミスキ」

「もう一度って?」

「名前だ。 私の名を呼べ。その可愛らしい声で私の名を呼んでおくれ」

「クギナ... さん?」

「ぬうっ。 よっ、呼び捨てでも構わんぞ?」

「じゃ、じゃあ、クギナ?」

「ああ、私もお前を愛しているぞ、ミスキ。 お前は私のものだ!」

そんな感じでミスキは閉店時間が到来するまでクギナに愛され続けた。

◇◆◇

営業時間が終了すると、ほとんど深夜だった。 慣れない仕事でミスキはクタクタに疲れており、眠気も強い。

ニンブリングに転生してからというもの、ミスキは疲れやすいうえ頻繁に睡眠を欲する体質になっていた。 行動速度が常人の3倍だからかもしれない。

ミスキは、ナナリのアパート(おうち)に戻ってナナリが用意してくれる寝床に潜り込むのが待ち遠しくてならなかった。

控室に戻されたミスキは帰り支度を始める。 まずは、この鬱陶しいオシャレ縄を... しかしオシャレ縄は固結びでギュッと縛られていて、ミスキの力では解(ほど)けない。

「ねえ、ちょっと」ミスキは短髪男に声を掛ける。「このオシャレ縄を解いてよ。 固くて解けない」

「ああ、寮に戻ったらな」

「リョウ?」

「お前たちが住む場所だ。 言ってなかったか? このホスト・クラブは衣食住が完備だ」

「オレには家(ナナリのアパート)があるから」

「ダメ。ホストは全員が寮に住む。例外はない」

そう言い切られてミスキは脱走を決意した。 こんなとこ逃げ出してやる。 勤務中はオシャレ縄で不自由な思いをし、勤務時間外は寮で管理される。 そんな生活は真っ平ごめんだ。 体臭を抑える薬を明日の昼までに飲まなくちゃいけないしな。

◇◆◇

その頃、クギナは落胆していた。 ホストクラブ・プリンスからミスキの身柄を買い取ろうとして断られたのだ。

ミスキの売却を渋る店側がクギナに提示した売値は1億ゴールド。 2級ハンターのクギナにおいそれと支払える金額ではない。 クギナは分割100回払いを主張したものの、店側はそれをすげなく断った。

それでもクギナはミスキを諦めきれない。 ホストクラブではお触りまでしか出来ないではないか! おまけにホストクラブが全寮制だからミスキとプラベートで会うのも困難を極める。

クギナはミスキを求めて疼(うず)く体をもてあまし、閉店後で人気(ひとけ)もまばらなホストクラブ・プリンスの前を未練がましくウロウロする。 その様はまるでストーカーである。

◇◆◇

同じ頃、ナナリはミスキのことを心配していた。 深夜になるというのに、まだ戻って来ないのだ。

繁華街で仕事を探すと言っていたから、見つかったのが夜の仕事で、今日からさっそく働くことになったのかもしれない。

それにしても遅い! もう真夜中なのよ? ミスキの身に何かあったのかも。 繁華街まで様子を見に行こうかしら... ダメダメ。 若い女の身で深夜に1人で行動するなんて危険過ぎるよ。

◇◆◇

脱走を決意したミスキは、短髪男が席を外した隙を狙い、控室の扉を開けて部屋の外へと忍び出た。 オシャレ縄が歩行を妨げるが、常人の3倍の速度を誇るミスキがその気になればチョコチョコ歩きでもかなりの速度である。

チョコチョコチョコチョコチョコチョコと驚異的な速度で廊下を突っ切り、テーブルの下や観葉植物の陰などに隠れて人目を忍び、ミスキはついにホストクラブ・プリンスのロビーまでやって来た。

よしっ、これでオレは自由だ!

解放感に後押しされてミスキは、チョコチョコとエントランスの通路を走り抜け、店外へと躍り出た。 脱出成功である。 夜の外気がミスキの全身を包む。

空気の悪いホストクラブに長時間押し込められていたミスキには、屋外の新鮮な空気がことのほか美味しく感じられた。 スーハースーハーと深呼吸するミスキ。

そのミスキをひょいと抱え上げる者がいた。

「誰!?」

「こんなところにミスキが落ちているなんてッ! なんという巨運!」

クギナだった。

彼女はミスキを小脇に抱えると、そそくさとホストクラブ・プリンスの前から逃げ出した。 店の者に見つかるとミスキの所有権を主張されてしまうからだ。

◇◆◇

クギナはミスキを抱えて、深夜の街を無我夢中で走った。 恋い焦がれていたミスキをいま自分は手中に収めている。 ホストクラブで肩を抱きながらあんなこといいな出来たらいいなと夢想していたミスキをいま自宅にお持ち帰りしているのだ!

思いがけぬ拾い者に、クギナは目が回りそうなほどに大興奮。 「ハアッ、ハアッ、ハアッ」 全速走行が心肺にかける負担と相まって、彼女の胸はヤバいほどに激しく鼓動し、頭の血管がドクドクと脈打つ。

クギナは息を荒げ、自宅のアパートを目指して駆け続ける。 彼女の自宅は繁華街からそう遠くない。 数分ほど走って到着した。

クギナのアパートはナナリが住むアパートよりも随分と立派だった。 石造りの数階建てのアパートである。 入り口付近に設けられた管理人室には深夜だというのに管理人が座っており、クギナに挨拶をする。

「お帰りなさい、クギナさん」

そして不審げにクギナに尋ねる。

「小脇に抱えているその子は?」

「う... 」

問われて言葉に詰まるクギナの顎の先端から汗がポタリ、ポタリと地面に落ちる。

大興奮の全力疾走でもともと汗まみれだったのだ。 そこに管理人に疑惑の眼差しを向けられて、クギナの発汗量はもはやそれ自体が不審なレベルだった。

「わ、私のだっ!」

「というと、クギナさんのお子さん...?」

「いや、私の... 弟、そう弟だ」

あんまり納得していない様子の管理人さんを尻目に、クギナはミスキを自室へと連れ込んだ。

部屋に入ると、クギナはミスキをベッドの上にドサリと放り投げる。

ホストクラブ・プリンスの衣装に身を包み、オシャレ縄もそのままのミスキはクギナにとって最上級のご馳走である。 彼女はベッドに横たわるミスキに飛びつくようにしてむしゃぶりついた。

◇◆◇◆◇

翌朝。

ミスキが目を覚ましたとき、隣に寝ていたクギナはすでに目覚めて、飽くことなくミスキの顔を眺め続けていた。

クギナはミスキに微笑みかける。

「おはよう、ミスキ。 よく寝ていたな。 もう昼過ぎだぞ」

クギナは昨晩と打って変わって穏やかな様子である。 彼女のミスキに対する激しい情欲は昨晩のうちに満たされたのだ。

「おはよう、クギナ」

そして、ミスキもどことなく落ち着いた雰囲気である。 そう、まるで一皮剥けて大人になったかのように。

「ねえクギナ、このオシャレ縄を解いてくれないかな? 邪魔で仕方ないんだ」

「いいだろう。 だが、その前に1つお前に伝えておくことがある」

「何?」

「お前は知らないかもしれないが、私は1億ゴールドという大金を支払って、お前の身柄をホストクラブ・プリンスから引き取った」

「1億ゴールド!?」

ミスキは1ゴールドが何円に相当するのか知らなかったが、1億という大きな数字に驚いた。

「そうだ。 私の年収5年分に相当する金額だ。 それでだな、言葉は悪いが、お前は私の所有物ということになっている」

「それって、ナナリのアパートに戻れないってこと?」

ミスキがポロっと出した名前にクギナが敏感に反応する。

「ナナリだと!? 誰だそいつは? 女か? 女だな!」

クギナの剣幕にミスキは自分が失言したことに気付き、話をそらす。

「そんなことよりさ、オレはいつまでクギナの家にいなきゃならないの?」

「...私がいいと言うまでだ。 勝手に出て行くと、お前はお尋ね者になって警察に追われ続けることになる」

むろん、クギナのここまでの話は全部ウソである。 クギナはホストクラブ・プリンスにミスキ代を支払ってなどいないし、そもそもホストクラブにミスキを所有する権利も拘束する権利もない。 ミスキが署名したのは労使契約書に過ぎず、その労使契約書にしても合法性が怪しい代物であった。

しかし、ミスキはクギナの話を信じるほかなかった。 彼はクギナとホストクラブとの交渉が決裂したことを知らなかったし、この世界の法律に関してもまったくの無知だったからだ。

そして、クギナがミスキのために1億ゴールドも支払ったという認識がクギナに対する負い目となり、ミスキの心を縛っていた。 彼は自分がクギナのもとを離れられないと感じ始めていたのである。

「わかったよ」

ミスキは力なく頷いた。

クギナは元気をなくしたミスキを抱きしめて言う。

「心配するな。お前は私が幸せにしてやる」

「じゃあ1つだけお願いがあるんだけど」

そうしてミスキはクギナに、美味しそうな体臭を抑えるための薬を買ってきてもらった。

◇◆◇◆◇

遅めの昼食を終えるとクギナが言う。

「私は仕事に行ってくるからな。 ミスキは部屋にいろ」

クギナの仕事はハンターである。

ハンターとは、護衛・警備・傭兵などを行う者のことだ。 以前はモンスター退治を生業(なりわい)とする者だけをハンターと呼んでいたが、現在では、戦闘力を求められる業務全般がハンターの領分である。

ハンターは国家が管理する免許制の職業である。 1級~4級および特級にランクが分かれており、業績や能力に応じてランク付けされる。 特級がいちばん上で、4級がいちばん下だ。

多くのハンターは2級止まりだ。 ハンターの引退時期である40~50才になるまでに、大部分のハンターは2級にまでしか到達できないのである。

23才にして既(すで)に2級ハンターになっているクギナは、ハンターとしては大変に優秀な部類である。 ゆくゆくは1級ハンターになることだろう。

「仕事って、ハンターの? 街の外に出るならオレも連れてってよ」

ずっと家にいるのは退屈だし、街の外を見てみたい。

「ううむ... まあいいか。 私の傍を離れるんじゃないぞ?」

クギナはミスキの同伴を渋る様子だったが、やがて考え直した。

クギナは剣と皮鎧を身に着けて自分の支度を整えると、ミスキにも小さな剣を手渡した。

「護身用にこの短剣を持っておけ。 お前には手頃なサイズだろう」

ミスキが初めて手にした短剣はクギナの長剣よりも随分と短いが、それでもずっしりとした重さがある。 自分の身を守る武器かと思うと頼もしい重さだ。

短剣を鞘から引き抜くと、ギラリと光る刀身が姿を見せる。 新品の包丁の刃と同じぐらいに研ぎ澄まされ、それでいて包丁よりも遥かに肉厚の刀身である。

「武器を持つのは初めてか? 慎重に扱え。 指ぐらいは簡単に切断してしまうぞ。 その短剣には軽く魔法がかかっているからな」

ミスキは短剣の鞘をベルトから下げた。 彼の衣服は、さっきクギナが体臭抑制薬のついでに買ってきてくれたものだ。 防御力ゼロの布の服である。

「そのうちミスキの装備も整えないとな」

◇◆◇

クギナはミスキを連れてアパートを出ると、まっすぐ東に向かった。 これまでミスキが足を運んだことのない区域である。 他のハンターたちと東の市門で落ち合うのだという。

市門に到着したミスキは、黄色い声に迎えられた。

「きゃー可愛いー。 その子は誰ですか?」

市門の付近に集まるグループの1人が、ミスキを伴って歩み寄るクギナに声を掛けた。 このグループがクギナの同僚なのだろう。

「私の弟だ。 ハンターの仕事を見学させてやろうと思ってな」

アパート管理人についた安っぽい嘘をリサイクルするクギナ。

「クギナさんに似てませんね?」

案の定、ちょっと突っ込まれただけですぐにボロが出る。

「まあ、その... なんだ、ちょっと事情があってな。 私が面倒を見ている」

「私もその子の面倒を見たいなー」

別の女性がミスキに尋ねる。

「ねえキミ、なんて名前なの?」

問われて自分の名前を伝えるミスキ。 彼は女の子にちやほやされて良い気分だった。 うすうす気づいてたけど、オレってこんなにモテるのか。

グループの男性2人は女性の関心がミスキに集まるのが面白くない。

「けっ、そんなお子様をモンスター退治に連れて来るなんてどうかしてるぜ」

「まったくだ。 クギナさんよう、ちびすけが一生治らない傷を負いでもしたら責任を取れるのか?」

「取るさ。 私が一生ミスキの面倒をみる」

そう言い切るクギナに負けじと、戦士っぽい装いの女性も声を上げる。

「私が守ってあげるからね、ミスキくん」

もう1人の女性も追随する。

「怪我をしたら私が治してあげるわ」

彼女は治癒魔法でも使えるのだろうか? この異世界でミスキは未だ魔法の呪文を目撃していないが、魔法の道具があるのだから魔法の呪文も存在するはずだ。

クギナは2人の女性がミスキにしきりに構うのが気に入らない。 不機嫌な声で一同に告げる。

「さあ、出発するぞ。 さっさと仕事を済ませよう」

◇◆◇

目的地へと向かって歩き始めた一行。

ミスキを気にくわない男2人がミスキを置いてけぼりにしようと速いペースで歩くため、おのずと行進速度が速まる。 ミスキは歩幅が小さいため本来なら到底ついて行けないだが、得意の素早さで難なくついていく。

「足速いねー、ミスキちゃん」

そう言ったのは魔法使いの女性。 ナンシアという名前だと教わった。

しかし男戦士A ――2人いる男性のうちの片方だ―― は憎まれ口を叩く。

「チビの分際でなかなか速いじゃないか。 ニンブリングみたい... あっ、そいつニンブリングじゃねえのか? 耳の先っぽもとんがってるし」

ドキドキしながら、それでも平静を装ってミスキは問うた。

「もしオレが本当にニンブリングだったら、どうするの?」

冗談めかしたミスキの問いかけだったが、男戦士Aはミスキをじっと見つめながら意外と真剣に考え込む。

「そうだな... 肉を食べると素早さが、脳を食べると頭の回転が、そして眼を食べると動体視力が向上すると言われているニンブリングだ。 どの部位でもいいから食べてみたいもんだ。 が、ニンブリング殺しは人殺しと同じ犯罪...」

そして男戦士Aはさらに自分の考えをブツブツとつぶやく。

「捕まえて売り飛ばすのもいいな。 ニン肉は末端価格で1g3万ゴールド。 2億ゴールドは稼げる。 いや、捕まえるのですら違法。 ここはさらに手堅く...」

男戦士Aの様子に不安を感じたミスキは予防策として嘘をついておくことにした。

「あー、よかった。 オレ、ニンブリングじゃなくて本っ当によかった。 普通の妖精で良かったよ」

しかし、自分の夢想に没頭する男戦士Aはミスキの嘘を聞いていない。 ミスキの嘘は下手くそで実質的にはニンブリング宣言と変わりなかったから、聞かれなくてむしろ幸いだったのだが。

男戦士Aの代わりに女戦士 ――彼女はウェンティーという名だ―― がミスキの言葉に反応する。

「あら、ミスキくんはやっぱり妖精なんだ。 クギナさんはオークの血が混じってるんでしょ? それなのに妖精が弟って、あれっ? あれれ~? どういうことなんでしょ~ね~。 ねえ、クギナさん?」

「うるさいっ!」

クギナは女戦士ウェンティーを一喝して黙らせた。

クギナたちが今日退治するのはラットリングというモンスターなのだという。

「ラットリングってどんなモンスターなの?」

彼はラットリングという種類のモンスターを聞いたことがなかったのだ。 ゴブリンやオークならRPGで知っているのだが。

「ラットリングは...」

そう説明しようとするクギナを遮るかのように、ウェンティーが説明を始める。

「ラットリングはねえ...」

ウェンティーの説明によると、ラットリングはネズミに似た頭部を持つヒューマノイドである。 身長は130cmほどと人間よりも小柄だが動きが素早く、棍棒と巨大な門歯で攻撃を仕掛けて来るのだという。

「まっ、この面子なら心配ないわよ」

クギナはミスキにしきりに構おうとするウェンティーに切歯扼腕する。 ミスキを弟として紹介してしまったため、ウェンティーのアプローチを邪魔する口実がないのだ。 もしかしたらあるのかもしれないが、クギナはそういった駆け引きが苦手であった。

◇◆◇

1時間ほど歩いてクギナたち一行は現場に到着した。 現場は銀の鉱山跡。 この鉱山跡に40~50匹ものラットリングの群れが住み着き始めたのだという。

40~50匹にまで増えた群れを放置していると、1年後にはネズミ算式に数千匹にまで増えてしまう。 今のうちに根絶やしにしておくのが賢明なのだ。

鉱山跡から数百m離れた物陰に身を隠して様子を窺うと、何匹ものラットリングがしきりに鉱山に出入りしている。 ラットリングは数匹のグループに分かれて、あっちへ行ったりこっちに来たり。

そして、こっちに来たグループが、そのままミスキたちのいる方角へと歩いて来た。

「しめた。 こっちに来るぞ。 まずはあいつらから殺(や)ってしまおう」

男戦士Aの言葉にクギナが答える。

「ここは私に任せてもらう。 新しく買った剣の切れ味を試したい」

こちらにやって来るラットリングは3匹。 クギナは3匹を十分に引き付けると物陰から飛び出す。 と同時に剣を鞘から引き抜くと、あっという間に3匹を切り捨てた。 ラットリング3匹は、上下あるいは左右に体を両断されて息絶えている。

クギナの速度はニンブリングであるミスキの目から見ても相当で、特に剣を振るう速さは大変なものだった。

「クギナさんの振るう剣が見えなかったぜ」と男戦士A。

「それよりも剣の切れ味だ。ラットリングをまるでバターみたいに切断しちまった」と男戦士B。

クギナも剣の切れ味に満足した様子だ。

「悪くない切れ味だ。1千万ゴールドもしただけのことはある。 さて、相手は雑魚のラットリング。 作戦を考えるのも面倒だ、正面から突撃しよう」

魔法使いのナンシアが不安そうにする。

「え、クギナさん、それってちょっと無茶じゃないですか?」

「大丈夫だ。 私がついている」

そう言うとクギナは鉱山跡の入り口を目指して歩き出した。 自分が危機に陥ることなど考えてもいない、堂々たる歩きっぷりである。

他のメンバーも仕方なく後を付いていくが、全員もれなく不安そうにしている。 彼らとは対照的に、ミスキは呑気な表情を浮かべていた。 自分はいつでも逃げれると高をくくっているのだ。

クギナたちの接近に気付いたラットリングが、ギュルギュルと鳴き声を立てながら襲い掛かって来た。 その鳴き声を聞きつけて、鉱山の入り口から次々とラットリングが姿を現す。

クギナは無造作に剣を振るい1振りごとに1匹を倒すが、他の4人はそうは行かない。 倒すラットリングの数を襲ってくるラットリングの数が徐々に上回り、その結果ピンチに陥った。

クギナは1人で突出したため他のメンバーから分断され、すぐには救援に駆けつけられない。 戦士の3人はなんとか自分の身を守ることができていたものの、自分のことで手一杯で女魔法使いナンシアを守る余裕は無い。

ミスキは見学ということで戦闘の輪の外から観戦していたのだが、クギナの大雑把な戦闘方針ゆえに苦境に陥ったパーティーを見て、自分がここでこうして手をこまねいていてよいのかと気が咎めだした。

ミスキの意識はしきりに、クギナにもらった短剣の方へと向かう。 素早いと称されるラットリングだが、ミスキの目に映るその動きはとても遅い。 この短剣を使えばラットリングの一匹や二匹など造作もなく倒せるんじゃないだろうか? これだけ自信があるのに苦境にある人たちを助けないのは罪なんじゃないだろうか? いや、自分に正直になろう。 オレは思う存分に力を揮(ふる)い、人助けして感謝されたい...

そんな葛藤を続けるミスキの目前で、女魔法使いナンシアがとうとうラットリングから一撃をくらってしまった。 棍棒で右ひざを力一杯殴られたのだ。 アレは痛いだろう。 膝の皿を損傷したかもしれない。

「きゃあっ」 痛めた膝を抱えるナンシア。 その彼女の頭部を目がけて、別のラットリングが棍棒を振り下ろす。

それを見たときミスキは瞬時に決断した。 もうクヨクヨしてる場合じゃない。 ミスキは短剣を鞘から抜きつつ、ナンシアを狙うラットリングへとダッシュして、瞬時にラットリングまであと2mの距離まで近づく。 そこで大地を蹴ってジャンプ! ナンシアに意識を集中するラットリングの頭部に飛び蹴りを食らわせた。

ミスキの接近に気付いていなかったラットリングは、まったく無防備な状態で側頭部に飛び蹴りをまともにくらい、ずざざーっと地面に倒れこんで気を失った。 体重の軽いミスキだが、ダッシュの勢いが十分に乗った飛び蹴りならラットリングを気絶させることぐらいは出来るのだ。

いったん戦闘に参加したミスキは止まらなかった。 さっきの飛び蹴りで気絶しているラットリングに飛びかかると首を短剣で突いてトドメを刺し、横合いから襲い来るラットリングの棍棒をかいくぐって胸元に短剣の三連撃。 ドシュ、ドシュ、ドシュ。 3つの刺突はほぼ同時にラットリングの胸元をえぐり、3つの傷口から同時に血が噴き出す。

「ミスキちゃん...」

女魔法使いナンシアの声を背中に聞きながらミスキは八面六臂の大活躍、目まぐるしく動き回り形勢を完全に逆転してしまった。

「もういいぞ、ミスキ。 お前がこんなに戦えるとはな」

クギナの声でミスキが我に返ると、ラットリングはすべて地に倒れ、まだ息がある個体に戦士たちが止めを刺してまわっていた。

「ミスキちゃんのおかげで命拾いしたわ。 ありがとう」

ナンシアにお礼を言われて「いやあ」と照れるミスキ。 待望の感謝であるが、面と向かって言われると面はゆいのだ。

「それにしてもミスキくん、すごい活躍だったわね。 10匹近く一人で倒したんじゃないの? 3級ハンター並みの実力は絶対あるよ」と女戦士ウェンティーもミスキを褒める。

褒められたり感謝されたりでご満悦のミスキだったが、そこで男戦士Aが口を開く。

「ミスキってさあ、やっぱりニンブリングだよな。 ニンブリング以外にありえねーよ」

男戦士Aの発言にドキリとするミスキ。 ああ、はっきりと言われてしまった。 ヤバい。 人前では自分の素早さを隠さなきゃならなかったのに。

しかしナンシアがミスキを擁護する。

「ニンブリングだったらどうだっていうの? 言っとくけど、ニンブリングに危害を加えるのは犯罪よ」

「わかってる。 確認してみただけだ」

確認だって? なんのために...

◇◆◇

町へと戻ってきたクギナたち。

市の門をくぐるときにクギナが教えてくれる。

「お前の住むこの町はミザル市という。 1つの国のようなもんだな。 市の周辺にはいくつもの村がある。 この街道をずっと東へ進むとキカザル市。 ミザル市と同じぐらい大きい市だ」

前世の知識と照らし合わせてミスキは判断した。 ミザル市は都市国家ということか。

市内へ入った一行は、立派なビルの前までやって来た。

「ここは?」

尋ねるミスキにクギナが答える。

「ハンター協会だ。 今日のラットリング退治の報告をしないとな」

ビルの一階は大きなフロアで、入り口の正面にカウンターがある。 クギナたちは各自が首から下げていたカードをカウンターの職員に提出する。

「ミスキはまだカードを持っていなかったな。もったいないことをした」

「何がもったいないの?」

「ハンター・カードに倒したモンスターが記録されるんだ。 ミスキは今日ラットリングを何匹も倒したが、カードを持ってないから成果としてカウントされない」

クギナがカウンターの職員に言う。

「この子に仮カードを作ってやってくれ」

「手数料1万ゴールドと身分証が必要です」

転生してきたミスキは身分証なんて持っていない。 クギナもそのことに気付いた様子だ。

「...そうだったな。 じゃ、また別の機会にするとしよう」

ラットリング退治の報告を終えた一同は報酬を分配する。 パーティー全員の成果を合計した金額をいったん代表者が受け取り、それをパーティー内で功績に応じて案分するのだ。

ミスキは見学者という立場でカードも持っていなかったが、大いに活躍したということで特別に5万ゴールドを与えられた。 異世界に来て初めての収入である。

報酬の分配を終えると、一同は速やかに解散した。 打ち上げとかはやらないようだ。

「じゃあまたね、ミスキちゃん」

◇◆◇◆◇

翌日。

クギナが外出から戻って来る。

「ミスキ! 身分証を入手してきたぞ。 おいミスキ、なんだまた居眠りしていたのか。 お前は本当によく眠る」

そう言って彼女はミスキに1枚のカードを手渡す。

「ほら、これでハンター・カードを作れるぞ。 明日またモンスター退治に行くから今日のうちに作っておけ」

クギナはどうやってミスキの身分証を入手したのだろう? ミスキは疑問に思ったが、聞かないほうがいいような気がしたので尋ねなかった。

ミスキはすぐにハンター協会へ行き、1万ゴールドを支払って仮ハンター・カードを発行してもらった。 仮カードでしかないから一人でモンスター退治の依頼を引き受けられないが、モンスターを倒せばカードに記録されるし報酬も支払われる。 そうしてカードに記録された実績が、一人前のハンターとして認められるための条件の1つなのだという。

ハンター協会へはクギナも同行した。 「ミスキに女が寄って来るといけないからな」と冗談めかして言っていたが、その目は笑っていなかった。 ミスキが一人で自由に外出できる日は来るのだろうか?

◇◆◇◆◇

その後の数週間、ミスキはクギナに連れられて毎日のようにモンスター退治に赴いた。 クギナに剣術の基本を教わり、モンスター退治でおカネも溜まる、それなりに充実した日々であった。

「なんだかクギナが師匠のように思えてきたよ」

「剣術を教えているし、お前のハンター見習いの保証人にもなっているから、ま、師匠のようなもんだな。 だが私としては、ミスキ、お前の... その、恋人でありたいと思ってるんだが」

珍しく恥じらうクギナにミスキはサービス精神をかきたてられ、必ずしも本心ではないことを口にしてしまう。

「クギナはオレの恋人だよ!」

あまつさえ、ミスキはクギナの首に飛びついて頬にキスまでしてしまった。

「そうかっ、私たちは相思相愛だったのだな!」

感激したクギナはミスキを両腕に抱きしめる。

ミスキのちょっとしたサービス精神が生み出したクギナの勘違い。 それが後日の火種にならなければ良いのだが...

◇◆◇◆◇

「そろそろハンター試験の時期だな。ミスキなら実績も十分だし合格するだろう」

「えっ、試験なんてあるの?」

「試験としては筆記試験だけだ。 ハンターとしての知識を問う試験だな。 ミスキはいま私の監督のもとで見習いハンターとして活動しているが、1人前のハンターは自分の判断で行動するから、相応の知識が求められるわけさ」

「試験勉強とかは...?」

「必要ない。 お前にはすでにハンターとして必要な知識が身についているはずだ。 あっ、そういえばミスキは読み書きが...」

「できないよ?」

「お前に読み書きを教えねばならんな」

こうしてミスキはクギナ先生に読み書きを教わることになった。

そしてミスキは、たったの1週間で読み書きをマスターした。 ニンブリングの行動速度の速さが学習に効果を発揮した一例である。

その翌週、ミスキはハンター試験を受け、つつがなく4級ハンターの資格を取得した。 一人でもモンスター退治に行ける身分を得たのである。

◇◆◇◆◇

ミスキの恋人宣言があってから、クギナはミスキが1人で外出するのを時々ではあるが認めるようになっていた。 ミスキと相思相愛であるという認識が彼女に安心感を与えたのだ。

モンスター退治で立派に稼ぐようになり行動の自由も得たミスキは、その日、1人でのんきに街を散策していた。

異世界に転生して間もない頃に住んでいた廃屋や食料調達でお世話になった商店街などをぶらつく。

「あの頃は辛かったなー。 おカネを持ってなかったし、持ってても買い物できなかった」

あの頃、ミスキは常に美味しそうな体臭を周囲に撒き散らしていた。 でも今は違う。 モンスター退治で懐はあったかいし、店に入っても人に襲われたりしない。 ミスキは今ちょっぴり幸せであった。

「オレがいま幸せなのも...」

そうだ。 ナナリだ。 すべてはナナリのおかげだったのだ。 彼女がいなければミスキはとっくに飢え死にするか食べ尽くされるかしていただろう。 わずか数日間ではあったが、ナナリにはとてもお世話になった。

「どうして今までナナリのことを忘れてたんだろう。オレって薄情なのかな?」

ナナリから引き離されて一ヶ月半、彼女は今どうしてるだろうか? ぼーっと考えながら歩くミスキの耳に、彼の名を呼ぶ声が聞こえた。

「ミスキっ! 無事だったのね!」

その声と同時に、ミスキは横合いからガッと抱きすくめられた。 ミスキの鼻腔に素敵な女性の香りが流れ込む。 この素敵な匂いは... ナナリだ!

「心配したんだからっ」

そう言ってナナリはミスキの頭髪に鼻頭をぐりぐりとこすり付ける。 ミスキはされるがままだ。

「あなた今までどこでどうしてたのっ?」

ナナリは抱きすくめていたミスキを解放すると、彼の両肩に手をかけて正面を向かせ、そう問い質した。

問われたミスキはこれまでの経緯を話し初める。 何も隠すようなことは無い。 無いはずだ。

話し初めて3分後、ナナリがミスキに尋ねる。

「ねえ、その話長くなる?」

「うん」

「じゃあ、うちにいらっしゃい」

ミスキはナナリと手をつなぎ、アパートに帰りながらこれまでの経緯をナナリに語って聞かせた。

「そのホストクラブは明らかに違法だけど、クギナって女性の言ってることもおかしいわね」

「どうおかしいの?」

「ミスキがお店から脱走したところを拾い上げられたんでしょう? 1億ゴールドもの大金が関わる取引で、そんな引き渡し方をするはずがないわ」

ナナリの言う通りだ、とミスキは思った。 自分でおカネを稼いで買い物もするようになり、ミスキはこの世界の貨幣価値がわかるようになっていたのだ。 1ゴールド1円の明朗会計である。

「すると、クギナはオレの代金として1億ゴールドも支払ってない?」

「おそらくね。 いずれにしても、ミスキがクギナさんの家を出たところで警察に追われるようなことにはならない。 それは確実」

「ならオレもこのアパートに住むよ」

クギナも色々と世話を焼いてくれたが、クギナはミスキを騙していたのだし、毎晩ミスキは大人の時間にクギナを喜ばせている。 睡眠時間を削ってまでも、である。 クギナとの関係はイーブンだ。

ナナリと同じアパートに住むといっても、ミスキはナナリの部屋に居候するわけではない。 部屋を別に借りるのだ。 ミスキも今ではハンターとして一人前に稼げるのだから。

幸いにもアパートに空き部屋があったので、ミスキは即日入居した。 都合の良いことにナナリの部屋の隣である。 身分証もハンター・カードもミスキは常に携帯しているので、クギナのアパートに戻る必要もなかった。

◇◆◇◆◇

クギナと袂を分かつことを決めたミスキは、ハンターとして活動する環境をゼロから整えなくてはならなかった。

まず、ハンター事務所と新たに契約しなくてはならなかった。 ハンターは自分で事務所を持つか、他のハンターが運営する事務所に所属して活動する。 ミスキが少なくとも当面はクギナと顔を合わせたくないなら、クギナと別の事務所に登録し直さなくてはならない。

そこでミスキは、自宅アパート近くのハンター事務所に登録した。 以前の事務所に比べると多少みすぼらしいが大した問題ではない。 ハンターはほとんど事務所に顔を出さないからだ。 モンスター退治の依頼はテレホンだし、任務完了の報告はハンター協会で行う。

次に、テレホンという高価な魔道具を購入する必要があった。 テレホンは電話に酷似した道具である。 違いは動力が電気か魔力かという点ぐらいだ。 事務所はテレホンでモンスター退治の依頼するため、ハンターにはテレホンが必須である。

そこで彼は100万ゴールドという大枚をはたいてテレホンを買った。 ミスキの全財産は200万ゴールド。 その半分に当たる出費であった。

テレホンには据え置きタイプと携帯タイプがありハンター事務所は携帯タイプを推奨するが、コンパクトな携帯タイプは最低でも300万ゴールド。 ミスキに手が届く価格ではなかった。

◇◆◇

こうしてミスキがハンターとして独り立ちしてから、何日かが経過した。

大部分のハンターはパーティーで行動するがミスキはソロ、つまり単独行動である。 ミスキは行動速度が常人の3倍なので、1人で行動するほうが楽なのだった。

そして実のところ、ミスキの戦闘能力は4級ハンターの範囲を大きく逸脱する。 退治するモンスターとの相性にもよるが2級ハンターに近い実力があるのだ。 4級ハンターに割り当てられる程度の依頼の中には、ミスキ1人でも完遂できるものが少なくなかった。

ミスキが所属するハンター事務所は当初、彼のソロ活動を少なからず危ぶんでいたが、ミスキが安定的に依頼をこなすのを見て、ミスキの実力を信頼するようになった。

◇◆◇◆◇

そんなある日、ミスキがその日2つ目の依頼を終えた直後のことである。

ラットリングの血に汚れた短剣を布で拭いながら、ミスキはハッと背後を振り返った。 見ると、何者かが高い木の枝に腰かけてミスキを見下ろしていた。 ミスキはは今この人物の視線に反応したのだ。

木の枝に座る人物は子供のように小柄だった。 頭髪の色は金色、髪型はベリーショート、そして身に着けているのは緑色のチュニックとショートパンツ。 どこかで見たような格好... もしかしてニンブリング!?

敵対的な感じもないので、ミスキはさほど警戒することなくそのニンブリングに近づき、声を掛ける。

「キミはニンブリングなのかい?」

「そうだ。 お前もニンブリング? でも、うちの村の者じゃない。 どこから来た?」

「ミザル市さ」

「...お前はニンブリングにしては妙だな」

木の上のニンブリングはそう言って腰かけている枝から飛び降りると、ミスキのいる場所まであっという間に歩いて来た。 速い! はたから見る3倍速は異常に速かった。

近づいて来たニンブリングは男性で、小柄なミスキよりさらに小柄だった。 彼はしげしげとミスキを観察し、疑わしそうな口調で尋ねる。

「お前、ほんとにニンブリングか? プラチナ色の毛髪なんて見たことない。 瞳も銀色だし」

「ニンブリングのはずだよ」 女神さまがそう言ってた... あ、そうだ。 「エルダーってやつかもしれない」 ナナリがそう言ってた。

「エルダーは魔王の呪いで絶滅したはずだが」

面倒になってきたミスキはぶっちゃけることにした。

「オレ、転生者なんだ」

すると意外にあっさりと納得してもらえた。 クギナもナナリも転生者という言葉を知っていたし、この世界は転生者が珍しくないのかもしれない。

「だからエルダーのことも、食べ尽くされて絶滅したとしか知らない。 普通のニンブリングとどこが違うんだい?」

そう尋ねたミスキにニンブリングが答える。

「普通のニンブリングは3倍速だが、エルダーは最大20倍速だったそうだ」

過去形である。 さすがは絶滅種。

「あとは...」

あとは? 他にも何か違いがあるのだろうか?

「...まあ、うん。だな」

ニンブリングは言葉を濁した。 思い出せなかったのだろう。

ミスキの正体を確認して満足したニンブリングは、別れの挨拶もそこそこにせかせかと何処かへ去っていった。 集落が近くにあるのかもしれない。

後に残されたミスキはニンブリングとの会話を思い起こす。 エルダーが20倍速って本当なのかな? 3倍速でも稼げるのに、それが20倍速になったら... 1日に何件の依頼を達成できる? 戦闘での有益性も計り知れない。

ミスキは20倍速を実現しようと、全身に力を込めたり全速力で駆け回ったりしてみた。 しかし、3倍速以上にはならない。 当然である。 これぐらいのことで20倍速モードが発動するのなら、これまでに何らかのはずみで発動しているはずだ。

「3倍までなら自由自在にスピード・アップできるのになー。 20倍速はオカルトの領域なんかな?」

ミスキは気を取り直して3件目の依頼へと向かうことにした。 そう、彼は今日だけで依頼を3つも引き受けていたのだ。

◇◆◇

しかし、2つの依頼を立て続けにこなしたミスキは少なからず疲労していた。 戦闘は命のやり取り、ラットリング相手でも戦闘中は急速に疲弊する。 戦闘時間が短くても疲れは溜まり、そうして溜まった疲れは睡眠を取るまで完全には回復しない。

「でも残る依頼はあと1つ。 この依頼を終えれば今日の収益は、えーと、いくらだろ...」

ラットリング1匹で2万ゴールド。 3つ目の依頼を無事に済ませられれば50万ゴールドを優に超す稼ぎになるだろう。

◇◆◇

3件目の依頼は、ミザル市から南に5kmほど離れた小村が出したものだった。 ラットリング数十匹の群れが昨晩、村にやって来たのだ。 村は入り口の門を閉ざし、テレホンでミザル市に救援を要請した。

ミスキが現地に到着すると、村は30匹ほどのラットリングにたかられていた。 どいつもこいつも、何かに憑り付かれたかのように村を取り囲む木製の防柵を齧っている。

ラットリングに齧るのを止めさせようと、村人たちが総出で防柵の内側から棒や槍でラットリングをつつくが、ラットリングはそれを軽捷にかわすと別の場所に移動しまた齧り始める。

ラットリングはネズミよりも遥かに巨大な生物である。 その巨大生物が巨大な門歯で齧るのだから、好きに齧らせていれば村の防柵などものの数分で齧り倒されるだろう。 村人たちは切羽詰まった様子でラットリングをつついていた。

ふらりと村の外に姿を現したミスキは、そんな村の状況を見て驚いた。

「うわっ、なんて有様だ」

この依頼を最初にすれば良かった。 そうすれば、この村に1時間は早く駆けつけられただろうに。

ミスキは大急ぎで村に駆け寄ると、村の中に意識が集中しているラットリングたちを背後から次々に短剣で刺し殺していく。 極めて不意打ちに近い状況であり、1匹を突き殺すのに数秒もかからない。

ラットリングたちがミスキの襲撃に意識を向けたときには、すでにラットリングの半数が地面に倒れて、ミスキに短剣で突かれた首の傷口から血を流していた。

「グキュグキュ」「ギュルギュリ」などと鳴き声を上げ、残る半数がミスキに殺到する。 ミスキが一度に相手取るには少しばかり数が多すぎる。 しかも彼は、ここまでの連戦で疲れている。

ミスキは襲い来るラットリングに背を向けると、手近にある1本の大木を目指して駆け出した。 ラットリングたちはミスキの後を追いかけて村を離れる。 これでひとまず村は安全だ。

タッタッタッ。 ミスキは駆けながら短剣を鞘に納め、大木のもとへたどり着くと木の幹に手をかけ木登りを始めた。

ミスキを追うラットリングたちが大木に到着したとき、ミスキは既にかなり高いところまで登っていた。 大木の中腹にある手ごろな枝まで移動し、そこに腰かけて一休み。 木の下で15匹のラットリングが右往左往しているのを眺める。

ラットリングの村への攻撃は中断されたし、ミスキにもとりあえずラットリングの攻撃は届かない。 小康状態である。

しかし、これからどうしようか? ラットリングは木登りしてこないかな? いつまで木の下でウロウロするんだろうか?

ミスキは思案しながら、腰に下げた水筒の麦茶を飲む。 麦茶は残り少なく、最後まで飲み切ってしまった。 ミスキがまた麦茶を飲みたければ、生きてミザル市まで戻るしかない! いや、あるいはそこの村で麦茶を分けてもらえるだろうか。

いずれにせよ、木の下にいるラットリングをどうにかしなくてはならない。 どうやってどうにかしようか?

ミスキが思案していると、村の木製の門が開いて20人ほどの村人が出てきた。 男性ばかりで、いずれも剣や槍で武装している。 ラットリングと戦ってくれるらしい。

村人たちが木の下に集う15匹のラットリングに襲いかかり、戦闘が始まった。 戦況はわりと互角。 ミスキの木の下で、「ぐあっ」「グキュ」などと村人とラットリングの悲鳴が交錯する。

村人たちが必死で戦っているのにプロのハンターたるミスキが手ごろな枝に腰かけて戦いを見物しているわけにはいかない。

ミスキは参戦の機会を窺う。 そして早々に参戦チャンスを見出した。 ラットリングの棍棒で足の脛(すね)を殴られて地に膝をついた男性の頭部をめがけて、別のラットリングが棍棒を振り下ろそうとしているのだ。

ミスキは、棍棒を振り下ろさんとするラットリングめがけて枝から飛び降りると、その頭部に飛び蹴りを食らわせる。 加速のついた蹴りをまともに食らい、ラットリングは地面に叩き付けられた。 「ギュアッ」と悲鳴をあげ、ラットリングは棍棒を手放す。

ミスキは華麗に着地すると短剣を鞘から抜き放ち、戦闘に身を投じた。 乱戦の中で絶妙に立ち回り、村人と対戦するラットリングを死角から攻撃する。

死角から放たれるミスキの攻撃は恐ろしく致死率が高い。 ミスキの参戦によってラットリングはみるみるうちに数を減らし、ほどなくして全滅した。 ミッション・コンプリートである。

戦闘終了後、ミスキの飛び降り蹴りに絶体絶命の危機を救われた男性が、ミスキに謝意を述べる。

「君のおかげで命拾いしたよ。 ありがとう」

男性にお礼を言われて「いやあ」と照れるミスキ。 ミスキは感謝されるのを好むが、面と向かって言われると面はゆいのだ。

このあと、ミスキは村長宅に招かれて麦茶をごちそうになった。

◇◆◇

今朝、ミスキは3つの依頼を1時間46分(移動時間と休憩時間を含む)でかたずけた。 依頼の内容はどれもラットリング退治。 ラットリングは繁殖力が旺盛で数が多いため、依頼も多い。

稼いだ金額は70万ゴールド。 1級ハンターに勝るとも劣らない日収である。 時給にするともっと凄い。 時給44万ゴールド、S級ハンターに比肩する時給だ。

◇◆◇◆◇

ひと仕事どころかさん(ルビ)仕事を終えて町へと戻って来たミスキ。 朝の爽やかな日差しが街路を照らす。

まだ午前中だというのにミスキは70万ゴールドもの大金を稼いでしまったわけだが、この報酬を確定させるにはハンター協会で退治の完了を報告せねばならない。 協会の魔道具がギルド・カードに記録される討伐成果を読み取るまでは依頼完了と認められない。

この協会での報告がしかし、最近のミスキにとっては憂鬱だった。 その理由はクギナである。 クギナと顔を合わせたくないミスキはいつも、協会でクギナと出くわさないように用心しなくてはならない。

協会の入り口から1階のフロアを覗いてクギナがいないことを確認し、窓口で報告手続きの完了を待つ間もずっとクギナが来るんじゃないかと周囲を警戒するという具合である。

その甲斐あって、これまでミスキはクギナを避けることができていた。

そもそもクギナは、アパートに戻って来ないミスキが無事でいることや、1人でハンターとして活動していることを知っているのだろうか?

答えはイエス。 ハンター協会の職員から聞いたのである。 そしてクギナは、ミスキが自分を避けていることに気づいていたし、その理由がミスキ入手時にミスキについた嘘にあるだろうと推測してもいた。 クギナは直情的で浅慮だが愚鈍ではない。

そして今日、クギナは1階フロアでミスキを待ち構えていた。 それも物陰に身を潜めて。 クギナは朝早くから1階フロアに置かれた大きな観葉植物の背後に隠れて辛抱強くミスキを待ち伏せていたのだ。 彼女は欲望がからむと驚くほどの辛抱強さを発揮する。

ミスキは自分が待ち伏せされているなど夢にも思わない。 「待ち伏せする人なんて実在するの?」という感じである。

彼はいつものようにハンター協会の入り口からコッソリと中を覗き込み、クギナの姿が見えないのを確認すると、せかせかと退治報告の窓口まで行きハンター・カードを提出した。

「急いでるんだ。早くしてね」

職員にそう声を掛けて、3倍速で周囲をキョロキョロと見回す。

クギナの姿は見えない。 今日もどうやら無事におうち(ルビ)に帰れそうだ。

と思った矢先の出来事であった。 横合いから人影がミスキに飛びかかる。

「捕まえたぞ、ミスキっ!」

ミスキは3倍速で逃げようとしたが、クギナはひょいと手を伸ばしてミスキの手首をパシッと掴んだ。 そして両膝を床につけ、ミスキの体を引き寄せてしっかりと胸に抱きしめる。

「ミスキ、もう二度と逃さない」

ミスキはクギナの胸に抱かれながら思い出していた。 そうだった。 クギナはオレの速度にわりと付いてこれるんだった。

ミスキは常人の3倍の速度を誇るが、それはあくまでも一般人の3倍ということである。 そしてハンターは一般人ではない。 理由は解明されていないが、ハンターはモンスターを倒すほどに身体能力が増してゆく。 2級ハンターともなれば常人の3倍に近い速度で行動できる。 それはすなわち、ミスキに近い速度ということだ。

今後ミスキがモンスターを倒し続けて基本速度が上がれば、やがて彼はクギナよりも桁違いに速いスピードを手に入れることだろう。 いや、ミスキが現在のペースでモンスターを借り続けるならば、その日が来るのはそう遠くないかもしれない。

しかし現時点ではまだ、両者の速度に大きな差は無いのだった。

ミスキを抱きすくめ、彼のプラチナ色の頭髪に鼻をうずめながらクギナは尋ねる。

「どうして逃げたりしたんだ」

その問いには答えず、ミスキは解放を要求する。

「痛い。 離してよクギナ」

「ダメだ。 離すとお前は逃げる。 このまま連れて帰る」

クギナの腕の中でミスキはもがくが、クギナはミスキの抵抗をものともしない。 子猫がもがくようなものである。

ミスキはこのまま為す術もなくクギナのアパートに持ち帰られ監禁されてしまうのだろうか? 鎖につながれクギナ専用の慰み者としてコキ使われてしまうのか?

ここはハンター協会の一階フロア。 周囲には多くの人がいて、クギナがミスキを捕獲する様子を眺めていたが、クギナを止める者はいないのだろうか? クギナが今やっているのは犯罪ではないのか?

「誰か助けてっ!」

ミスキが叫ぶと周囲の野次馬にざわめきが生じるが、誰もクギナに意見しようとしない。 2級ハンターであるクギナに意見できる者はそうそういないのだ。

「さあミスキ、うちへ帰ろう。 途中で鎖屋に寄ろうな。 お前をつなぐ立派な鎖を買ってやろう」

「なんか怖いよクギナ。 キャラが変わっちゃってるよ」

「お前が私を変えたんだ」

クギナはミスキを抱きかかえてハンター協会のビルの出口へと向かう。 絶体絶命のミスキ。 彼は残りの人生をクギナのペットとして過ごすのか?

そのとき、凛とした女性の声がフロアに響いた。

「お待ちなさい、クギナ」

クギナが抱きかかえたミスキごと声のほうを振り返り、ミスキにも声の主の姿が目に入る。 金髪の女性だ。

ミスキは彼女をこの一階フロアで何度か見かけたことがあった。 上品に整った顔立ち、豊かな胸、均整の取れた肢体、完璧なメイク(お化粧)。 「美人だなー」とガン見していて目が合い、微笑みかけられたこともある。

「むっ、アネージュ。 なんぞ言いたいことでもあるのか?」

彼女の名はアネージュらしい。

「その子を連れ去るのは認められないわ」

「お前には関係ない」

「その子は嫌がってるじゃないの」

「嫌がってない」

そう断言したのはクギナだ。 誰の目にも明らかな事実をキッパリと否定したのだ。

「犯罪よ?」

「犯罪じゃない」

頑固に事実を否定するクギナ。 しかし彼女は追い詰められ、こめかみに汗を浮かべていた。 警察沙汰になれば自分に勝ち目がないことをわかっているのだ。

「お前と話していても埒(らち)が明かない」

そう言ってアネージュに背を向け、ビルの外へと向かうクギナ。 自分は悪いことをしていないと言わんばかりに、ことさらにゆっくりと歩く。

そのクギナの背中にアネージュが告げる。

「拉致の現行犯ね。 あなたを逮捕します」 そして彼女は魔法の呪文を唱え始めた。「ラキノ... ハビ・ンベリリ・ルライ アブセン・デフィシェン・ルライ。 暗黒よ彼(か)の女の頭を包め、ダークネス!」

暗黒(ダークネス)の呪文により、クギナの頭部が突如として暗黒のベールに包まれた。

「うおっ!」

暗黒のベールによって周囲からクギナの顔が見えないのと同様に、クギナも周囲が見えないようだ。 クギナは暗黒のベールから逃れようと、顔を手で払ったり上半身を前後左右に振って頭の位置を変えたりするが、ベールは彼女の頭部にピッタリと追随して離れない。

周囲が見えないクギナは早々とミスキの拉致も逃亡も諦めた。 この辺りの判断の速さは流石に2級ハンターである。 そして、ハンター協会の警備員たちがクギナを捕まえる。 彼らはミスキが助けを求めたときも傍観していたのだが、アネージュの介入が彼らにクギナを捕縛する勇気を与えたのだ。

クギナから解放されたミスキは、アネージュに礼を述べて少し雑談。 「じゃあね。 機会があれば今度いっしょに仕事しましょ」 そう言ってアネージュは去っていった。

後ろ手に縄で縛られるクギナを尻目に、ミスキは依頼完了報告を済ませて報酬の70万ゴールドをゲット。 これを協会の口座に預金して、協会ビルを後にした。

◇◆◇◆◇

ビルを出たとき、ミスキは眠くてたまらなかった。 1人でハンターとして活動するようになってから、活動量が増えたためか食事量と睡眠時間が急増したのである。

ミスキは近頃、毎日18時間も眠る。 朝の6時半に起床し、昼の12時過ぎには就寝するという生活だ。 起床後すぐにナナリの部屋で朝ゴハンを食べ、その後ナナリの花屋を手伝ってから、町の外でモンスター退治、そして昼食を食べて就寝という具合である。 1日2食なので、ミスキは一度に大量に食べる。 小さい体で3人前は食べるのだ。

町の食事処で昼食をたらふく食べたミスキは、アパートの部屋に戻って歯磨きをすると、服も着替えずベッドに潜り込んだ。 これから彼は明日の朝まで眠り続ける。

枕に頭を乗せて心地よいまどろみに身を委ねているとき、ミスキは良いアイデアを思い付いた。 3倍速で眠れば6時間の睡眠で十分だ! その昼、ミスキは3倍速モードで眠った。

ミスキが目覚めたとき、あたりは薄暗かった。

いま何時かな? ミスキは魔灯のスイッチを入れると、ベッドサイドに置いてある時計の文字盤を見た。 魔灯は電気の代わりに魔力で光る道具である。 時計も精巧な歯車の代わりに魔力で作動する。

時計が示す時間は午後6時28分。 それでミスキは思い出す。 3倍速モードで眠れたのだ。 それにしても変な時間に起きてしまった。 睡眠リズムを昼夜のリズムに合わせるのに苦労しそうだ。

ミスキは部屋を出ると、隣に住むナナリの部屋を訪れた。 ナナリはもう花屋の仕事から戻っているはずだ。

コンコンと部屋の扉をノックする。 「ナナリ、いる? ミスキだよ」

ガチャリとドアが開きナナリが姿を見せる。 が、その表情は暗い。 いつも快活なナナリがどうしたんだろう? 彼女の目も濡れているような。

「どうしたの、ナナリ?」 ミスキは心配そうに尋ねた。 そしてナナリに抱き着き、背中に手を回す。 背の低いミスキがナナリに抱き着くと、ちょうど彼女の胸元に自分の顔が来る。

ミスキはナナリの暗い顔を見て不安になり抱き着いたわけだが、ナナリも何かを抱きかかえたい気分だったのだろう、ミスキを優しく抱きしめると後頭部をさわさわと撫でる。

「中で話すわ。 コーヒーでも淹れるから、座って待ってて」

台所のテーブルでコーヒーを飲みながらナナリは今日の出来事をミスキに語った。

なんでも、ナナリが露店でやってる花屋にチンピラが言いがかりを付けてきたらしい。 ショバ代を払うか店を立ち退けと、大声で怒鳴られたり商品の花を台無しにされたりしたのだと言う。 チンピラのせいで客も寄り付かず、今日の売り上げは皆無に等しい。

ミスキに話し終えたナナリは不安そうにうつむく。

「花屋を続けられなくなったらどうしようかしら。 仕事なんてそう簡単に見つからないし...」

「職業紹介所は?」

「あそこで仕事にありつける人なんて、ほんの一握りだけ。 学歴も職歴も無い私にはお花屋さんしか...」

そう言うとナナリは両手に顔をうずめてシクシクと泣き始めた。

ナナリが涙を流すのを見てミスキはショックを受けた。 ナナリが泣くなんて。

ミスキが放つ美味しい匂いに耐え抜いたナナリ、いつも元気で明るくてミスキの面倒を見てくれるナナリ、心身ともに健やかで丈夫なナナリ。 ナナリが泣くところなんてミスキは想像できなかった。 そのナナリが目の前で泣いている。

ミスキは椅子から立ち上がってナナリの傍らまで歩くと、椅子に座り泣いているナナリの上半身を抱きしめた。

「オレがナナリの花屋を守るよ」

ハンターとして数多くのモンスター(主にラットリング)を屠ってきたミスキにとって、チンピラなど物の数ではないのだ。

◇◆◇

翌日、ミスキはハンターの仕事を休み、午前9時を過ぎてもナナリの花屋をずっと手伝っていた。 今日は週末ということもあって客が多い。 ナナリの花屋はお墓の近くにあるので、墓参りをする人が多い週末には客足が伸びる。

正午になり、ミスキとナナリが折りたたみ椅子に座って昼食のサンドイッチを食べていると、3人の男が通りの向こうからやって来た。 チンピラである。 彼らの身なりや雰囲気でミスキにもすぐにわかった。

3人の男の特徴は、1人はスキンヘッド、もう1人は頬の傷、そして残る1人は赤ら顔である。 赤ら顔の男は常に頭に血を登らせて怒っているかのように顔が赤い。 色白なだけに顔の赤さが際立つ。

3人はいずれも長身で体つきもたくましい。 とても強そうである。 ミスキなど捕まったらひとたまりもなく殴り殺されてしまうだろう。 捕まれば、の話であるが。

チンピラ3人の姿を認めて、ナナリの顔が不安・恐怖・緊張の色を帯びる。

「来たわ、やつらよ」

ミスキは頭の中で素早く考える。 まず、正当防衛であることを主張するため、彼らに先に手を出させなくてはならない。 それから、ミスキは短剣を腰から下げているが、この短剣を使うことはできない。 町中で下手に武器を使うとハンター資格を剥奪されかねないからだ。

ミスキは3倍速モードに切り替えて、食べかけのサンドイッチを素早く食べ終えた。 戦いの前のエネルギー補給だ。

ミスキが食後の紅茶を飲み終えたとき、チンピラたちがナナリの露店の前で足を止めた。 やはり彼らの目的地はこの露店だった。

ナナリの露店の近くにいた人たちはそそくさと露店から遠ざかり、離れた場所から事態の推移を見守る。 そこに通行人が加わって野次馬の人だかりが生まれつつある。

チンピラの一人、頬に傷を持つ男が衆人環視のもとで堂々とカネをせびる。

「ネエちゃん、ショバ代をよこせ」

椅子に座るナナリは身をすくませながらも、男を見上げて支払いを拒絶した。

「あなたたちに払うおカネなんてありません」

「昨日言ったよなあ? 店を畳むかショバ代をよこせって」

「あなたたちに、そんなことを要求する権利は無いわ」

「権利ならあるさ。 ここはオレたちのシマになったんだ。 さあ、昨日と今日のぶんのショバ代あわせて1万ゴールド、さっさと払わねえか!」

頬傷男はそう怒鳴ったあと、ソフトな声音に切り替えて言う。

「この店を畳むってんならそれでもいい。 次に開店する花屋は素直にショバ代を支払うだろうよ。 ネエちゃんには新しい仕事を用意してやろう」

そして頬傷男はナナリの体を値踏みするかのようにジロジロと眺める。

「胸も意外にでっかいし、顔もいい。 地味ななり(ルビ)してるからわらなかったが、上物じゃねえか。 俺の女にしてやろう」

頬傷男がナナリの腕をむんずと掴み、ナナリは「ひっ」と小さな声を上げた。 恐ろしさのあまり悲鳴すら出ないのだ。

嫌がるナナリの体を引っ張り上げながら、頬傷男は残る2人のチンピラに指示を出す。

「この花屋はいらねえから潰しとけ」

チンピラ2人は花が入ったバケツを地面に倒したり、露店のテントを壊したりと大暴れ。 この騒動を取り巻く群衆は恐々(こわごわ)とチンピラたちの無法ぶりを見物している。

露店が台無しにされナナリが連れ去られようとしているこのとき、ミスキはどうしていたのか?

ミスキは怒っていた。 その小さな体に怒りをいっぱい溜め込んでいたのだ。 彼の白皙は怒りに赤く染まり、小さな両手はぎゅっと握りしめられ拳を形成している。 彼が激怒しているのは一目瞭然であった。

しかし、チンピラ3人はミスキの怒りに気づかなかった。 あまりにも小さいミスキは彼らの眼中になかったのだ。

ミスキは無言のまま3倍速モードに入ると、助走をつけてダッシュ。 ナナリの腕を掴む頬傷男に突撃して、鳩尾(みぞおち)に飛び蹴りを叩き込んだ。 「ゲハッ」

目にも留まらぬミスキの飛び蹴りは完全な不意打ちとなった。 それが急所に決まったのである。 頬傷男はナナリを掴んでいた手を放し、鳩尾を両手で抱えて大地に膝を突き悶え苦しむ。

頬傷男が地面にうずくまったのを見て、スキンヘッドと赤ら顔は初めてミスキの存在を認識した。

「てめぇ、チビっ」「歯向かおうってのか!」

チンピラ2人がミスキのほうへとやって来る。 のっしのっしとことさらに威圧しようとする歩き方だ。

「クシャクシャにしてやる」

赤ら顔が殺気をみなぎらせてミスキに右手でパンチを繰り出す。 ミスキの3倍ほども大きな拳である。 それが物凄い勢いでミスキの顔面に近づいて来る。 まともに当たればミスキは死んでしまうだろう。

しかしミスキは、恐れげもない様子で赤ら顔のパンチをひょいとかわした。 今やプロのハンターであるミスキにとって、命のやり取りは日常茶飯事。 危険な一撃にいちいち身を固くするようではやっていけないのだ。

右手のパンチをかわされた赤ら顔は左手でパンチを放とうとするが、ミスキはその前に彼の股間を勢いよく蹴り上げた。 「ぐぅぅーー」 急所を直撃された赤ら顔は、股間を手で押さえて悶絶。 残るスキンヘッドも同じ要領で悶絶。

スキンヘッドと赤ら顔を失神させたところで、頬傷男が鳩尾に蹴りを食らったダメージから回復し立ち上がってきた。

「お前、ニンブリングだな」

頬傷男はそう言って、自らの右膝と左膝をすり合わせるようにして立ち、さらには鳩尾をかばう位置に両腕を構えた。 ミスキの攻撃ターゲットが金玉と鳩尾であると判断したのだ。

「さあ来やがれ、チビ」

「お前が来い」

ミスキはあっさりと言い返した。

「ぁんだと? テメエ、もう容赦しねえ。 ぶっ殺してやる」

男はそう叫ぶとスーツの内側に手を入れ、懐剣を取り出した。 小柄なミスキに「お前」呼ばわりされたのが頬傷男の癪に障ったのだ。

しかしミスキは懐剣ぐらいでは動じない。 ラットリングの巨大な門歯と大差ないのだから。

「あれ? 剣を使っちゃう? お前が剣を使うならオレも使うけど? 言っとくけど、オレはプロのハンターだよ? 頬の傷を増やしてやろうか?」

「ぬぅ、ハンターだったかこのガキ」

ミスキの挑発に頬傷男は憤怒の形相である。 が、冷静な判断力を残してはいたらしい。 彼は懐剣を懐に戻した。

それは正しい判断だった。 刃物を手にしたニンブリングは危険度が飛躍的に増大する。 体重が軽いニンブリングの攻撃は、素手による打撃であれば急所を直撃されない限り大きなダメージとならない。 しかし、鋭い刃物による攻撃はどこに当たってもダメージが生じる。 素早いニンブリングがそんな刃物を手にすると、殺人マシーンと評しても過言ではない存在となる。

「賢明な判断だ。お前もキンタマにお仕置きしてやるから、かかって来い」

依然として偉そうな態度で頬傷男に接するミスキ。 挑発しているのである。 歴然とした力量差を示したうえで頬傷男を完全に叩きのめし、二度とナナリにも花屋にも手出しできないようにする。 それがミスキの心づもりであった。

ナナリをいかがわしい店で働かせるとかヤクザ者の愛人にするといった真似は断じて認められない。 今日ミスキがこの場にいなかったらナナリはどうなっていただろうか? 想像しただけでもゾッとする。

ミスキの挑発に乗り突撃してくる頬傷男。 低い体勢で両腕を構え、上半身を前に突き出している。 鳩尾と股間の防御を重視したスタイルだ。

ミスキは突進してくる頬傷男を直前まで引き付けて横に飛んだ。 頬傷男にはミスキの姿が消えたように見えただろう。 そして、ターゲットを見失いたたら(傍点)を踏む彼の背後に回り、右ひざの裏に体重を乗せたキックを叩き込む。

頬傷男が全く予想していなかった膝裏への衝撃。 それによって膝カックンが生じ、頬傷男は「うわっ」と態勢を崩した。 そこですぐさまミスキは左ひざの裏にもキック!

両足の膝カックンが成立し、頬傷男は堪(こら)え切れず尻もちをついた。 どこか滑稽なその様子に野次馬の間から笑い声が漏れ、「いいぞー、ちっこいの。がんばれー!」などとミスキに声援が飛ぶ。

恥辱に顔を赤く染める頬傷男。 しかしミスキの攻撃は終わっていなかった。 ミスキは間を置かず、尻もちをついたことで位置が下がった頬傷男のこめかみ(傍点)を目がけて爪先で蹴りつけた。

こめかみも人体の急所の1つである。 頬傷男は失神して地面に仰向けに倒れた。

ナナリが野次馬の群衆から抜け出て、ミスキのほうへとやって来る。

「ありがとう、ミスキ。 おかげで助かったわ」

礼を述べるナナリ。 だが彼女の声は暗い。 なにしろ店を滅茶苦茶にされたのだ。 それに... このチンピラ3人を倒したところで、再びヤクザがやって来ないという保証はない。

「こいつら、というか、これからどうする?」

ミスキは問うたが、ナナリは沈黙している。 彼女は途方に暮れているのだ。

「こいつらさ、たぶんどこかのヤクザの構成員だよね。『うちのシマ』とか言ってたし」

ミスキは1人で喋り続ける。

「どうしよう、こいつらの本拠地に乗り込んで話をつけてこようか?」

そう言ってミスキはチンピラの1人の頭を蹴飛ばした。

「それは危険よミスキ」 ナナリがようやく口を開いた。「もういいの。別の仕事を探せば、きっと何かあるはずよ」

「でもさ、そこの男はナナリに目を付けたんだよ? 花屋じゃなくナナリ自身がねら、わっ」

ミスキの言葉が途中で途切れる。 足首を掴まれたのだ。誰に? 先ほどミスキが頭を蹴飛ばした赤ら顔のチンピラだ。 股間を蹴られて気絶していたのだが息を吹き返したらしい。

赤ら顔は掴んだミスキの足首を乱暴に引っ張った。 ミスキがいくら素早くても足首を掴まれてはどうしようもない。 なすすべもなく地面に倒れるミスキ。

「てめえ、さっきはよくもやってくれたなあ」

そう言いながら赤ら顔はミスキの体にのしかかり、仰向けに倒れているミスキの胸ぐらを掴んだ。

「てめえだけは顔面にパンチを叩き込まなきゃ気が済まねえ。その小生意気な顔を潰してやる」

そう言って赤ら顔は右腕を振りかぶる。 ミスキがどれほど速かろうと、こうまで捉えられていては逃げる余地もない。

赤ら顔の無骨なゲンコツがミスキの顔面めがけて振り下ろされる。 ミスキ、絶体絶命。 この異世界に転生してから彼は、物理的にこれほど差し迫ったピンチに遭遇したことがなかった。

ミスキはいま3倍速モードなので拳の速度が本来の1/3に見える。 回避不可能な状況で拳がゆっくり見えても仕方がないだが、神経がたかぶる戦闘中には自然と最大速度になってしまう。

ミスキはなるべく拳から顔をそらそうとするが、胸ぐらを捉まれているため完全には避けられない。 拳の半分でも顔に当たれば大怪我である。

巨大な拳が恐ろしい迫力を伴ってスローモーションで容赦なく迫り続ける。 ミスキの全神経がそこに集中した瞬間、拳が接近する速度が急に遅くなった。 相当に遅いどころではない、極度に遅い。

ノロノロと接近し続ける拳を眺めながらミスキは理解した。 危険に迫られてオレはエルダー・ニンブリングの真の能力に目覚めたのだと。

20倍速に目覚めたいま、ミスキはこの絶体絶命のピンチを脱することができるだろうか? 考える時間は十分にあるのでミスキは思案を巡らせる。

しかしミスキは何も思いつかなかった。 迫りくる拳の恐怖に長々とさらされたあげくミスキの顔に拳が激突し、殴られる痛みを常人の20倍の時間をかけてさんざん味わってミスキは気絶した。

ミスキはすでに気絶していたが、赤ら顔の怒りはパンチ一発では治まらない。 彼はなおもミスキを殴りつけようとする。 もう一発でも殴られればミスキは死んでしまうのではないか?

そのときである。

「えいっ!」 ナナリが長い角材で、ミスキにまたがる赤ら顔の頭を殴りつけた。

「このアマぁっ!」

赤ら顔はミスキの体から降りて、ナナリのほうへと向かう。 女相手でも平気で殴りかねない勢いだ。 危うしナナリ!

そのときである。

「ナナリに手を出すな。 こっちに来やがれ赤ら顔!」

声の主はミスキであった。 地面に両手を尽き上半身だけを地面から起こした状態で、赤ら顔の男に声をかけたのだ。 バカな! とその場の誰もが思った。 彼は殴られて気絶していたのではなかったのか?

そう、ミスキは確かに気絶していた。 ただし20倍速で、だ。 気絶したミスキは20倍の速度で気絶から回復したのである。

ミスキは意識こそ回復したものの、殴られたところが腫れ上がって右目はふさがり、右の鼻の穴から鼻血を垂らし、立つことさえできない... いや、ミスキは立ち上がった。 そう、こうしているうちにもミスキは20倍の速度で回復し続けているのだ。 今の彼には常人の1秒が20秒、3秒が1分、そして3分が1時間である。

ミスキへと怒りの矛先を戻した赤ら顔がミスキ目指して突撃する。 しかしこの数秒のうちにもミスキの時間は20倍速で流れている。 足取りがしっかりし、鼻血が止まり、フラついていた視線が安定する。

突進する赤ら顔からミスキは逃げず、2人は激突。 地面に倒れたのは赤ら顔のほうだった。 赤ら顔のパンチをかわしたミスキが、赤ら顔のガラ空きの鳩尾に肘打ちを叩き込んだのだ。 タイミングといい衝撃の逃し方といい絶妙なカウンター攻撃だったが、ミスキの速度が20倍であることを考えれば達人の技というほどのことでもない。

ミスキは、地面に倒れ苦悶する赤ら顔のこめかみ(傍点)に蹴りを打ち込んで失神させた。

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